2022年4月26日。越谷市郷土研究会主催の文化財パトロールを行なった。今回調査したのは、越谷市内を流れる新方川(にいがたがわ)右岸、定使野橋から増森橋の西側(花田・増林)区域。7箇所・18基の石仏や石塔を巡った。

文化財パトロール|概要

石仏パトロール

NPO法人・越谷市郷土研究会では、毎年、越谷市内にある石仏や石塔の現状調査(文化財パトロール)を実施している。今年(2022年)は増林地区(旧増林村)を六つの区域に分け、区域ごとに三、四人のメンバーで受け持ちの区域をまわった。

石仏調査開始

私が配属されたのは新方川西側の班。調査員は 2人。午後12時半。越谷駅東口ロータリーで待ち合わせ。本日の調査箇所を確認してから、最初のチェックポイントに車で向かった。

掲載写真について

今回は、個人宅もおじゃましたので、写真撮影に関しては、神社と共同墓地以外は、第三者が見たときに、場所などの個人情報が特定できないように配慮した。

稲荷社

稲荷社|花田二丁目

最初に訪れたのは個人宅の横にある稲荷社。場所は花田第一公園の近く(花田二丁目)。鉄柵で囲まれた神域には、しめ縄が飾られた石鳥居と、小さな社がある。境内に植えられている榊も手入れが行き届いている。

百箇所巡礼塔

百箇所巡礼塔

社の脇にある笠付き角柱型の石塔は百箇所巡礼塔。江戸後期・弘化2年(1845)造立。正面の主銘は「奉巡禮 秩父 西国 坂東 百番供養塔」。脇銘に施主の名前が確認できる。左側面には「弘化二乙巳三月吉日」と刻まれている。
 
百番巡礼とは、秩父三十四箇所・西国三十三所・坂東三十三箇所、合計百箇所を巡る観音巡礼のこと。日本百観音(にほんひゃくかんのん)とも呼ばれている。この石塔は、百箇所の巡礼を終えた記念に建てられた。

「荒神」文字塔

「荒神」文字塔

鳥居に向かって左脇にある小さな祠型の石祠は「荒神」文字塔。江戸中期・元禄7年(1694)造立。正面の主銘は「荒神」。左側面には「元禄七甲戌年」、右側面には「九月十五日」とある。

石塔の状態を確認

石仏調査

調査員の藤川氏が、石塔の保存状態や銘文などを資料と照らし合わせながら入念に確認し、チェックシートに記入した。

移動

稲荷社をあとに次の場所、定使野(じょうつかいの)共同墓地へ

定使野共同墓地

定使野共同墓地

定使野共同墓地に到着(花田二丁目)。場所は、新方川に架かる宮野橋から右岸沿いの道を100メートルほど下流に行った角地にある。もともとは、この場所から150メートルほど上流にあって、宝珠庵(ほうじゅあん)と呼ばれた寺院跡地だった。
 
定使野共同墓地では、8基の石仏と石塔を調査した。

道標付き三界万霊塔

道標付き三界万霊塔

江戸中期・寛延4年(1751)の道標付き三界万霊塔(さんがいばんれいとう)。三界万霊塔とは、命あるものが住む三つの世界◇欲界(よっかい)◇色界(しきかい)◇無色界(むしきかい)―と、すべての精霊(万霊)を供養するために建てた塔のこと。

道しるべ

道しるべ|銘文

この石塔は道しるべも兼ねている。正面に「右こしがや道」「左さしま道」、左側面に「ふどう道」、右側面に「のだほうし花道」と刻まれている。
 
こしがや道は、越ヶ谷に通じる道、さしま道は、茨城県の猿島(さしま)に通じる道、ふどう道は、大相模不動尊(大聖寺)に通じる道で、のだほうし花道は、野田・宝珠花(ほうしゅばな)に通じる道。

加藤氏

この道しるべは、もとは、ここから北西150メートルの地点、越谷野田線の花田交差点の北東角地にありました。かつては猿島道(さしまみち)と呼ばれていた道です。(越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏)

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

青面金剛像が浮き彫りされた庚申塔。江戸中期・安永4年(1775)造立。最頂部に「日月」、青面金剛の足元に「邪鬼」、両脇に「二鶏」、邪鬼の下には「三猿」が陽刻されている。
 
側面には「奉建立庚申供養」「安永四乙未正月吉日」「定使野村 講中」とある。定使野は増林村の一部であるが、かつては単独の村だった。

「馬頭観世音」文字塔

馬頭観世音文字塔

江戸後期・嘉永6年(1853)の「馬頭観世音」文字塔。石塔型式は駒型。主銘は「馬頭観世音」。脇銘に「嘉永六丑五月吉日」「定使野」という文字が確認できる。

観音像付き普門品供養塔

観音像付き普門品供養塔

江戸後期・天明9年(1789)造立の普門品供養塔。石塔の形式は角柱型。石塔の上に、丸彫りされた観音菩薩坐像が置かれている。主銘は「奉読誦普門品二万巻供養」。脇銘は「天明九己酉歳」「二月吉祥日」「増林定使野」「講中二十人」。この石塔は、観音経(普門品)を二万巻、唱えたことを記念して建てられたもの。
 
右側面には「文化六年」「巳九月吉日」「二万巻供養」と刻まれているので、この供養塔が建立された20年後の文化6年(1809)にも普門品を二万巻読誦して、ここに記念として追刻したと思われる。

六十六部供養塔

六十六部供養塔

六十六部供養塔。石塔型式は円柱型。江戸後期・天保4年(1833)造立。主銘は「六十六部供養塔」。側面には、12人の戒名と没年が刻まれている。六十六部供養塔とは、法華経を書写して、全国66箇所の霊場に1部ずつ納経する巡礼を終えた記念に建てた石塔のこと。

光明真言曼陀羅塔

光明真言曼陀羅塔

光明真言曼陀羅塔(こうみょうしんごんまんだらとう)。石塔型式は舟型。造立年代は不詳。石塔の上部に光明真言曼陀羅(※1)が刻まれている。

※1 光明真言曼荼羅とは、真言宗のお経・光明真言(24文字)をすべて梵字で象徴的に描いた図絵のこと。

曼陀羅に向かって左下には、降三世明王(こうざんぜみょうおう)を表わす梵字「ウン」、右下には、不動明王を表わす梵字「カーン」が刻まれている。梵字の下にはそれぞれ男女の戒名が見える。

光明真言曼陀羅

光明真言曼陀羅塔

石塔の上方中央に大きく円が描かれ、その内縁に沿って、24文字の光明真言が梵字で刻まれている。円の中央には大日如来の真言(ア・ビ・ラ・ウン・ケン)が梵字で十字形に刻まれている。光明真言曼陀羅を刻むことで、生前の罪が消滅し、極楽往生できると信じられた。

筆子塔|笠付き角型

筆子塔

笠付き角型の筆子塔。造立年代は不詳。寺子屋の教え子たちが、亡くなった師匠をしのんで建てた墓。

台石

台石

台石の正面に「筆子中」と刻まれている。側面には、寄進した寺子(生徒)たちの名前が40人近く刻まれているが、村名は、当所(増林)のほか、赤岩・松伏・粕壁(春日部)・前波・弥十郎村・花田・高畑・大沢・大吉・神明下など、広範囲に及んでいる。

筆子塔|円頭型

筆子塔

明治元年(1868)造立の筆子塔。石塔型式は円頭型。こちらも台石の正面に「筆子中」とある。左側面には、「寺子屋には100人以上の生徒がいて、師匠(先生)は、明治元年4月5日、57歳で他界した」ことなどが漢文で刻まれている。

碑文

側面

右側面には「むさし野の ちくさに宿る 月かけも はかなくきゆる 風のしら露」と刻まれている。師匠の辞世の句だろうか。

移動

定使野共同墓地の調査を終え、鷹匠橋(たかじょうばし)を渡って、新方川の左岸側(増林)に入る。