2021年7月8日・木曜日。越谷市郷土研究会主催の史跡巡りに同行。定使野橋(じょうつかいのはし)を起点に下千間堀(現在の新方川)の流路をたどりながら史跡や神社など18箇所を巡った。越谷市最古の青面金剛像庚申塔や三猿庚申塔など貴重な石仏も見学。案内者のうんちくある解説で、知られざる郷土の歴史を紐解くことができた。

集合|北越谷駅東口

北越谷駅東口

集合は東武伊勢崎線・北越谷駅東口。午前8時15分、受付開始。参加費を払ったあと資料を渡された。今回、同行したのは越谷市郷土研究会が主催する「第509回 史跡めぐり~最古の石仏と下千間堀」。主な立ち寄り先は、定使野共同墓地→スナッカラ地蔵→真正寺跡→増森新田稲荷神社→真光寺跡(越谷市内最古の庚申塔)…ほか。

あいさつ

出発前の挨拶

今回の参加者は15人。越谷市郷土研究会・渡邊会長のあいさつのあと、案内者の秦野氏から本日の行程と注意事項が伝えられた。

出発|越谷駅東口

午前8時40分。北越谷駅東口から朝日バス・弥栄団地循環<花田先回り>に乗車。

小田急弥栄団地入口バス停

小田急弥栄団地入口バス停

8時46分、小田急弥栄(やさか)団地入口バス停に到着。バスを降り、出発地点の定使野橋(じょうつかいのはし)に向かう。定使野橋まではバス停から北へ80メートル。

移動|四差路

定使野公園前の四差路

四差路(定使野公園前)の横断歩道を渡って左へ。40メートルほど先が定使野橋。外は小雨。傘をさしたりたたんだりしながらの史跡めぐりとなった。

定使野橋

定使野橋

8時52分。定使野橋に到着。かつて、新方川(千間堀)の右岸側(現・花田二丁目あたり)は増林村の定使野(じょうつかいの)と呼ばれる集落だった。本来は単独の村だったようだ。

かつては宮野橋が定使野橋だった

定使野橋|新方川下流の景色

定使野橋から新方川(千間堀)の下流を望んだ風景。前方に宮野橋(みやのばし)が見える。かつて、猿島(さしま)街道〔のちの野田街道〕と下千間堀が交差するこの定使野橋の地点には、橋はなく、猿島街道の地面の下を千間堀が伏越(ふせこし)で猿島街道を通過して下流へと流れていた。
 
当時は、今の宮野橋が定使野橋と呼ばれていた。昭和初期に、この場所(越谷野田線と新方川が交差する地点)に橋が架けられることになり、こちらの橋の名を定使野橋とし、元の定使野橋を宮野橋に改名した。

下千間堀とは

定使野橋の袂

今回の史跡巡りのメインテーマにもなっている「下千間堀」(しもせんげんぼり)について、案内役の秦野氏が解説してくれた。

案内役の秦野氏

かつては千間堀(現在の新方川)が葛西用水(逆川)の下を伏せ越して(※1)下流に流れていました。この伏せ越しの地点(現在の定使野橋あたり)から下流を「下千間堀」と呼んでいました。また、この伏せ越しの地点は、旧・大吉村と旧・増林村の境界でもあったので、旧・増林村から下流部の千間堀を「下千間堀」とも呼んでいました。

※1 伏せ越し(ふせこし)…河川の下をくぐるように設置された水路のこと。道路や鉄道の立体交差のようなもの。

また、上の写真の前方(道路の対面)にある施設は、現在の逆川の伏越施設。現在は、逆川が新方川を伏せ越して(逆川が新方川の下をくぐって)、さらに元荒川も伏せ越して、最終的に瓦曽根溜井(かわらぞねためい)に落とされている。

下千間堀流路跡

下千間堀流路跡の図

続いて、秦野氏が、かつての葛西用水(逆川)と下千間堀の流路跡の図を見せてくれた。千間堀が葛西用水(逆川)を伏せ越していたこと、旧・増林村から下流部を下千間堀と呼んでいたことなどが一目瞭然。たいへん貴重な図だ。

下千間堀と伏越跡については秦野氏が「越谷市増林地区における『新方川』の流路変遷」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。また同論文は越谷市郷土研究会会報第19号『古志賀谷』(令和2年12月刊)pp.16-27. にも載っている。
http://koshigayahistory.org/200424_niigatagawa_h_hatano.pdf

新方領堀改修記念碑

新方領堀改修記念碑

定使野橋の袂(道路脇の一画)に建っている大きな石碑は「新方領堀改修記念碑」。新方領堀(にいがたりょうぼり)とは千間堀(現在の新方川)のこと。かつては川幅が狭く、大雨が降ると沿岸の農地は水没し、大きな被害に見舞われた。このため昭和のはじめに新方領堀の改修工事が行なわれ、水害はなくなった。そのときの改修工事を記念して昭和8年(1932)に建てられたのがこの記念碑である。

(参考)馬頭観音文字塔

馬頭観音文字塔

※上記写真は2021年6月21日に撮影

新方領堀改修記念碑の横に角型の馬頭音文字塔がある。江戸末期・安政5年(1958)造立。正面の最頂部には、馬頭観音を表わす梵字「カン」。主銘は「馬頭観世音」と刻まれている。左側面には「安政五年戊午十一月吉日謹樹之」「大吉村願主」のほか世話人の名前が見える。
 
越谷市郷土研究会の山本泰秀氏によると、「このあたりは大吉村の飛び地であった」という。脇銘にある「大吉村」の文字は、かつてこの場所(現・増林)は増林村ではなく、大吉村に属していた(大吉村の飛び地だった)という山本氏の話を裏付けるものである。

移動|下千間堀左岸側の道

定使野橋|橋名板

9時。定使野橋をあとに下千間堀(新方川)左岸側の道を下流(南)に向かって歩く。雨がやんだ。今日の越谷市の天気予報は曇り一時雨なのでまた降ってくると思われる。しばし傘をたたんで歩く。

増林水位流量観測所

増林水位流量観測所

定使野橋から100メートル。道の左手に増林水位流量観測所が設けられている。台風などで大雨が降っているときの避難判断などに活用される。説明板にある「計画高水位 4.421m」の「計画高水位」(※2)とは、川が氾濫する危険のある水位のこと。新方川の計画高水位は 4.421 メートル。過去の最高水位は 4.430メールトル。平成5年(1993)8月27日、台風19号のときに記録したことが記されている。

※2 計画高水位の読み方は「けいかくこうすいい」「けいかくだかすいい」が一般的だが、「高水」は「たかみず」とも呼ばれるので、「けいかくたかみずすいい」と読まれることもある。

増林…ましばやし? ますばやし?

説明板|増林水位流量観測所

増林水位流量観測所には「ますばやし」と、ふりがなが振られている。これは誤記だ。同行した越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏が補則してくれた。

案内役の加藤氏

増林は、地元では昔から「ましばやし」と呼んできました。「ますばやし」とはけっして言いません。「ますばやし」は誤りですのでご注意ください。行政としては当然「ましばやし」です。ふりがなも「ましばやし」です。江戸時代以来、この土地は「ましばやし」ですし、隣の村の「増森」も「ましもり」です。「増田さん」の「増」は「ます」と、ふつうは読みます。春日部にある「増田新田」の「増」も「ます」と読みます。その影響で、他の地域で「増林」を「ますばやし」と誤って呼ぶ人がいるのだと思います。

花田第四樋門|対岸

花田第四樋門

増林水位流量観測所をあとに宮野橋(みやのばし)へ向かう。対岸の土手に見える水色の施設は花田第四樋門(はなた だいよん ひもん)。住宅地などの水を河川に排水するための施設で、今回の史跡巡りでは、花田地区にある樋門も巡る。

宮野橋

宮野橋

9時10分。宮野橋(みやのばし)に到着。定使野橋からは300メートルほど。定使野橋のところでも話があったが、かつては宮野橋が定使野橋と呼ばれていた。昭和5年(1930)に、土橋だった橋をコンクリート橋に掛け替えたとき、新しく宮野橋と名付けられた。

宮野橋を渡る

宮野橋

宮野橋を渡って左へ(新方川の右岸側)。増林から花田に入る。