稲荷神社|谷中町一丁目
続いて訪れたのは、越谷市谷中町一丁目にある稲荷神社。住所は埼玉県越谷市谷中町1-147。地元では三ッ谷(みつや)稲荷神社とも呼ばれている。かつて、現在の谷中一丁目あたりに「三ッ谷」と呼ばれた集落があった(※8)
※8 加藤幸一「出羽地区の石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)「旧谷中村の石仏」41頁
境内には二基の石仏(庚申塔・馬頭観音塔)と力石が二基ある。
庚申塔
入口の左側、松の木の横にあるのは青面金剛を主尊とした庚申塔。朱塗りの屋根の下に置かれている。江戸後期・寛政2年(1790)造塔。石塔型式は駒型。
正面
正面の最頂部には「日月」、中央には「青面金剛像」、青面金剛像の下に「邪鬼」、青面金剛の足元(左右)に「二鶏」、最下部には「三猿」が浮き彫りされている。
左側面
左側面の脇銘は「寛政二庚戌十一月吉日」
右側面
右側面には「願主」「庄兵衛」「講中」(こうじゅう)と刻まれている。
青面金剛
青面金剛の姿は、一面六臂(いちめんろっぴ=顔がひとつで腕が六本)。顔は忿怒相(ふんぬそう)。怒りの形相をしている。
持物(じもつ)は、左上手に法輪、左中手に合掌女人(ショケラ)、左下手に弓。右上手に鉾(ほこ)、右中手に剣、右下手に矢。
合掌女人
青面金剛に、髪の毛をつかまれ、ぶら下げられている合掌姿の女人(にょにん)は「ショケラ」とも呼ばれている。
庚申待(こうしんまち)が盛んだった時代、庚申の晩に男女の交わりは禁忌(きんき=タブー)だった。この禁忌を破って、庚申の晩に身ごもった子どもはどろぼうになると信じられ、女性を戒める姿を象徴的に描いたのが合掌女人(ショケラ)と言われている。
邪鬼
青面金剛に両脚で踏みつけられているのは邪鬼。この邪鬼は仰向けになっている。
三猿
邪気の下にいるのは三猿。向かって左から言わざる・聞かざる・見ざる。
馬頭観音塔
社殿の裏手、朱塗りの屋根の下に置かれている文字塔は馬頭観音塔。石塔型式は兜巾型(ときんがた)。正面中央に「馬頭観世音」と刻まれている。造立年代は不明。石塔の側面に文字は確認できない。
二基の力石
庚申塔のうしろと、三の鳥居の橫手(道路側)に、力石が二基ある。二基とも縦向きの状態で、下半分が土の中に埋まっている。
力石|庚申塔のうしろ
上の写真は庚申塔のうしろにある力石。「奉納 二拾」「三」の文字がかろうじて読みとれる。もしかしたら「奉納 二拾□貫目」「三ッ谷」と刻まれているのかもしれない。向かって左端に刻まれている文字は読めないが、奉納者の名前かもしれない。
力石|三の鳥居の橫手
こちら(上の写真)は三の鳥居の橫手(道路側)にある卵形の力石。文字らしきもが刻まれている形跡はあるが、風化していて読みとれる文字はない。かろうじて、うっすらと「□納」の文字が確認できる。
破損した石塔
社殿裏の木の下に破損した石塔がまとめて置かれている。笠付きの石塔のようだが、文字などは確認できなかったので、何の石塔かは分からなかった。
境内の風景
神社の隣にある平屋の建物は谷中一丁目自治会館。
鳥居
石畳の参道には鳥居が三基。一の鳥居は石鳥居。昭和60年(1985)7月に奉納された。朱塗りの二の鳥居は小さめの明神鳥居。
社殿前の朱塗りの三の鳥居も明神鳥居。朱塗りの神額には「正一位 稲荷大明神」と黒文字で書かれている。柱には奉納年月(平成6年〈1994〉1月吉日)と、寄進者の名前が書かれている。
社殿
屋根が朱塗りされている社殿は銅板葺き格子戸囲い。部分的に補修がほどこされている。社殿の正面上部に、鈴がひとつと、鈴緒(すずお)が吊られている。
社殿のうしろはちょっとした杜になっていて、静寂な雰囲気がただよっている。
三社の地図
今回調査した越谷市谷中町の稲荷神社三社の場所をGoogleマップに埋め込んだ。
参考文献
本記事を作成するにあたっては、関係書籍や調査報告書も参考にした。参考にした文献を以下に記す。引用した箇所については記事中に引用箇所を明記した。
加藤幸一「出羽地区のの石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
外山晴彦・『サライ』編集部編『歴史が分かる、腑に落ちる神社の見方』小学館(2007年7月15日 初版第6刷発行)