2022年2月26日。旧日光街道越ヶ谷宿を考える会主催のお話会が、こうじや音楽館(越谷市越ヶ谷本町)で行なわれた。話し手は、NPO法人越谷市郷土研究会の宮川進氏。「大力持ち卯之助噺」と題し、越谷で生まれ育った日本一の力持ち・三ノ宮卯之助について、逸話などもまじえて語ってくれた。
はじめに
本記事は、1時間にわたって行なわれた宮川進氏の講話内容を抜粋し、当日の雰囲気が伝わるよう、話し言葉にして綴ったものである。あくまでも要約なので、宮川氏が話した言葉を一字一句忠実にすべて再現しているわけではないことをあらかじめお断りしておく。
大力持ち卯之助噺
みなさんこんにちは。宮川です。今日は、江戸時代、三ノ宮卯之助(さんのみや・うのすけ)という越谷で生まれ育った日本一の力持ちについて、お話をさせていただきたいと思います。
そもそも越谷に三ノ宮卯之助という人物がいたということは、まったくといっていいほど知られていませんでした。古文書などの記録にも残っていません。
きっかけは、昭和26年(1951年)に、さかのぼります。
卯之助研究の先駆者である故・高崎力(たかさき・つとむ)先生のところに、郷土史家でもあった大袋村の村長から「珍しい浮世絵がある」と連絡があり、村長と高崎先生とで、三ノ宮村(現在の越谷市三野宮)の農家に行ったところ、古びた一枚の版木(はんぎ)を見せられました。
そこには、まわしを締めた相撲取りのような大男たちが米俵を担いだり、仰向けになって舟や馬などを両足で持ち上げている絵と、「江戸力持三ノ宮卯之助」という文字などが、彫られていました。
三野宮卯之助興行広告木版刷
その版木で刷った木版画がこれです。(※1)
三野宮卯之助興行広告木版刷(越谷市立図書館蔵)所有機関の掲載許諾済 ※禁転載
この木版画は「三野宮卯之助興行広告木版刷」の名で、越谷市立図書館に保存されています。
※1 当日のお話し会では、配布された資料(NPO法人越谷市郷土研究会編〈2021〉「日本一の力持ち三ノ宮卯之助」パンフレット)の表紙に掲載されている木版画を参照した。上掲の木版画は、2022年3月8日に越谷市立図書館で、市史資料利用の許可を事前に受け、関係者立会いのもとに「三野宮卯之助興行広告木版刷」を私が撮影したもの。
この男たちはいったい何者で、何をしているのか、江戸力持ちと称された三ノ宮卯之助とはどこのどんな人物なのか。
一枚の古びた版木の謎を解こうと、ここから高崎先生の卯之助研究が始まりました。この高崎先生の研究がなければ、日本一の力持ちとうたわれた越谷出身の三ノ宮卯之助という人物が、世の中に知られることはおそらくなかったでしょう。
きょうの私の話も、高崎先生の研究成果に基づいて、また故・高崎先生に敬意を表しながら、進めてまいりたいと思います。
それでは、卯之助が活躍した時代はどんな時代だったのか、ということからお話しをさせていただきます。
卯之助の生きた時代
三ノ宮卯之助顕彰碑(越谷市中央市民会館前庭)
卯之助の生きた時代は江戸後期、19世紀の前半です。
三ノ宮卯之助は、江戸後期・文化4年(1807年)に生まれました。文化4年の干支は「卯」(う)の年にあたり、三ノ宮村(現在の越谷市三野宮)に生まれたことから三ノ宮卯之助と呼ばれました。本名は分かっておりません。
7年前の寛政12年(1800年)には、蝦夷地測量のために江戸を出発した伊能忠敬(いのうただたか)が、第一夜を越谷で過ごしております。7年後の文化11年(1814年)には、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』の執筆を始めました。
卯之助が持ち上げた力石
卯之助が持ち上げた力石(越ヶ谷久伊豆神社)
天保2年(1831年)、25歳になった卯之助は、越ヶ谷久伊豆神社で、50貫(約188キログラム)の力石を持ち上げました。この力石は、現在、越ヶ谷の久伊豆神社に奉納されています(上の写真)。
越谷出身の大島弁蔵が、江戸の葺屋町(現在の日本橋人形町)で「千疋屋」を開店させたのが、3年後、天保5年(1834年)のことです。
卯之助が42歳のとき(嘉永1年〈1848年〉)、江戸力持ち番付で東の大関になりました。当時は横綱はありませんでしたので、卯之助が日本一の力持ちになったことになります。
5年後の嘉永6年(1853年)に、鎖国を続けていた日本にペリーが来航し、その翌年、嘉永7年(1854年)に、卯之助は46歳で亡くなりました。どこで死んだのか、どこに埋葬されているのかなど、詳しいことは分かっていません。
卯之助の生きた時代をかいつまんで、お話しいたしました。続きまして、卯之助が持ち上げた力石について、お話しさせていただきます。
卯之助銘の力石はいくつある?
三ノ宮卯之助銘のある力石(越ヶ谷久伊豆神社)
卯之助が持ち上げて神社などに奉納された力石は、長野県の諏訪神社や兵庫県の魚吹八幡神社、浅草の合力稲荷神社、川崎大師、鎌倉の鶴岡八幡宮など、全国にあります。
いちばん重いものは、埼玉県桶川市の稲荷神社にある 610キロの力石です。二番目に重いものは越谷の三野宮香取神社に奉納されている520キロの力石です。
越谷市には卯之助の力石が 6個ございますが、市の有形文化財・歴史資料に指定されています。
お渡ししたパンフレットの6ページをご覧ください。「三ノ宮卯之助」の名前が刻まれた力石は全国で 38個、確認されていますが、ここで訂正がございます。
じつは、鎌倉の稲荷神社にあった卯之助の力石2個は、現在、行方が分からなくなってしまいました。現地におもむいて確認しましたところ、道路の拡張工事のさいに、処分されてしまったようです。
力石は、仏像などと違って、一見すると何の変哲もない卵形の石に見えますので、おそらく工事現場では、歴史的価値のある石に思われなかったのでしょう。たいへん残念なことです。
したがいまして、現在、三ノ宮卯之助の名前が刻まれた力石は、38個ではなく、36個ということになります。
記録は残っているのか?
三ノ宮卯之助の名前が刻まれた力石は、全国で確認されているのですが、卯之助について書かれた記録はなにも見つかっておりません。
お膝元の越谷にも、当時の卯之助のことが記された古文書などはありません。
木版刷りが三種類あるのみ
※上の写真は、三野宮卯之助興行広告木版刷の一部(越谷市立図書館蔵・所有機関の掲載許諾済)。中央下、真ん中で、舟に乗った馬と人を両足で持ち上げているのが卯之助。
卯之助のことが記されたものといえば、さきほどご覧いただいた、卯之助の興行広告の木版刷りと、将軍さまの前で力比べをしたときの御上覧力持興行(ごじょうらん・ちからもちこうぎょう)の宣伝チラシ(引札=ひきふだ)、それに力持番付、この三つだけです。
このことから、卯之助はほんとうに実在した人物なのか、そもそも越谷出身なのか、という卯之助の存在を疑う声もありました。
こうした数少ない史料をもとに、高崎先生は、地元越谷の三野宮に伝わる卯之助の言い伝えや全国に残っている卯之助についての伝承・力石などを入念に調査し、その実在を証明したのです。
将軍の前で石を持ち上げた
卯之助の名前が頭角を現わし始めたのは、卯之助が27歳のとき、天保4年(1833年)のときでございます。江戸の深川八幡宮で、徳川11代将軍・家斉(いえなり)の御前で力持ち興行が行なわれまして、卯之助は「御上覧力持」(ごじょうらんちからもち)の名誉を受けました。
このときの興行の宣伝チラシ、引札(ひきふだ)と申しますが、それが残っております。
御上覧力持興行の引札
※上の写真は御上覧力持興行の引札(宣伝チラシ)。NPO法人越谷市郷土研究会編(2021)「日本一の力持ち三ノ宮卯之助」パンフレットから引用。
そこには仰向けになって両足で人を持ち上げている卯之助の絵と、「天保四年巳六月」「御上覧力持」「三ノ宮卯之助」と書かれた文字なとが見えます。
このあと、卯之助は一座を立ち上げまして、全国をめぐって力持興行を行ないます。巡業先で持ち上げたと思われる卯之助の力石が、先ほど申しあげましたように、全国に残っております。
力石はどうやって持ち上げた?
力石の持ち上げ方は何種類かありました。仰向けになって両足で石を持ち上げる足指し(あしさし)と呼ばれる方法のほか、両手で持ち上げたり、片手で持ち上げたり、担いだりと、いろいろな持ち上げ方があったようでございます。
最期にまつわる逸話
卯之助は、嘉永7年(1854)、48歳で亡くなりました。江戸の大名屋敷で、関西の力持ちと関東の力持ちを対決させて、日本一の力持ちを決める試合が催され、卯之助の江戸方が勝利しまして、卯之助は名実ともに日本一の力持ちになりました。
その夜、大名屋敷に双方の力士が招待され、祝いの酒席が行なわれました。酒盛りを終えて自分の道場に帰る途中、卯之助は突然苦しみだして、その場で息絶えた、ということが、地元・越谷三野宮に伝わっております。
毒殺説、食中毒説などいろいろ言われておりますが、詳しいことはわかっておりません。最後はまた旅に出て、旅先で死んだ、とも言われています。
卯之助の末裔(まつえい)にあたる越谷三野宮のお宅には、卯之助の位牌が残されています。卯之助はどこに葬られたのか、墓などは不明です。
まとめ
NPO法人越谷市郷土研究会編(2021)「日本一の力持ち三ノ宮卯之助」パンフレット
卯之助に関する話は、言い伝えといいますか、伝説がほとんどですが、それを明らかにしていくのが、これからの我々の課題だろうかと思います。
きょうは、卯之助の生涯について、おおよそをお話ししたわけでございますが、年代ごとの細かい内容につきましては、お渡ししたパンフレットや資料をお読みいただき、興味のある方は、卯之助銘のある力石を見て回るのもおもしろいかと思います。
本日はありがとうございました。
宮川進氏の略歴
昭和14年(1939年)生まれ。滋賀県近江八幡市出身。大阪市立大学法学部卒。安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)、埼玉りそな銀行に勤務。2005年から10年余、NPO法人越谷市郷土研究会の会長を務める。現在、こしがや市民活動連合会副会長(広報兼任)。著書に埼玉県の主要な古墳を紹介した『埼玉の古墳めぐり謎とロマンの70基』(さきたま出版会)がある。
宮川氏のお話会
2022年10月10日。越谷市越ヶ谷本町のこうじや音楽館で、旧日光街道越ヶ谷宿を考える会主催のお話会が行なわれた。話し手は、NPO法人越谷市郷土研究会の宮川進氏。「家康と越谷・お話いろいろ」と題し、家康は越谷が大好きだった、という話を語ってくれた。
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江戸時代後期、日本一の力持ちとうたわれた怪力の持ち主が越谷の三野宮村(現在の越谷市三野宮)にいた。名前は三ノ宮卯之助(さんのみやうのすけ)。力持ちを見せ物として一座を結成。諸国を回って活躍した。越谷市内には卯之助が持ち上げて奉納した力石(ちからいし)が6個現存している。