越谷市瓦曽根一丁目にある新町薬師堂の石仏群◇地蔵菩薩立像◇「秋葉大権現」文字塔◇六地蔵石幢◇青面金剛像庚申塔――などを調査した。場所は栃木銀行越谷支店の南側三角地帯。このあたりはかつて東正院(とうしょういん)と称した修験堂の寺院だった。現地で撮影した写真とともに歴史もひもといた。

石仏群

石仏群|新町薬師堂跡地(越谷市瓦曽根一丁目)

敷地内には石仏のほか墓標や石碑が置かれている。

地蔵菩薩立像

地蔵菩薩立像

向かって右端にあるのは丸彫りされた地蔵菩薩立像。身の丈二メートル余。明治29年(1896)造塔。台石には「明治廿九年二月造立」の銘のほか、寄進者12名の名前、請負人と仕立人の名前が刻まれている。
 
この地蔵菩薩立像は明治29年(1896)2月に再建されたもの。後述するが、敷地内に「地蔵尊再建記念碑」が建っている。かつては、地蔵尊は「格子戸づくりの堂舎」(※1)に安置されていたが、平成13年(2001)ごろに堂舎は取り壊され(※2)、あらわになった。

※1 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)4頁に「新町薬師堂境内の地蔵堂」として、堂舎の写真が載っている。

※2 加藤幸一「平成13年度調査 大沢町・越ヶ谷町の石仏」平成13年7月改定(越谷市立図書館蔵)50頁に「現在は(地蔵尊が安置されていた)堂そのものが最近取り壊されて」とあることから、平成13年(2001)ごろまでは、地蔵堂(格子戸づくりの堂舎)があったことが分かる。

地蔵尊再建記念碑

地蔵尊再建記念碑

向かって左端にある大きな石碑が、地蔵菩薩立像の再建を記念して地元の共栄講によって建てられた地蔵尊再建記念碑。正面に「地蔵尊」「再建記念碑」「天嶽寺第廿九世念誉」「越ヶ谷 共栄講」の銘が確認できる。裏面の最頂部に「明治廿九年二月」の銘、その下に、再建に携わった発起人・世話方・賛成人のほか石工・大工・鳶など50人近くの名前が刻まれている。

御手洗石

御手洗石

地蔵尊再建記念碑の前に古びた御手洗石(みたらしいし)が置かれている。奉納されたのは江戸後期・寛政7年(1795)。

御手洗石

左側面に「寛政七卯年十一月」とあり、裏面には「瓦曽根村」の銘と奉納者名とが刻まれている。

「秋葉大権現」文字塔

「秋葉大権現」文字塔

地蔵菩薩立像の隣にあるのは、江戸後期・文政10年(1827)秋葉講中(あきばこうじゅう)によって寄進された「秋葉大権現」文字塔。講中とは信仰者の集まりのこと。石塔型式は笠付き角型。三段に切石積みされた土台の上に台石が置かれ、その上に笠付きの石塔が載せられている。石塔正面の主銘は「秋葉大権現」。台石の正面には、香炉が置かれていて文字が読み取りにくいが「秋葉講中」と刻まれている。

台石|左側面

台石|左側面

台石の側面と裏面には寄進者や世話人などの名前が確認できる(※3)。商売を屋号とした名前が多く見られる。左側面には、米屋源助・八百屋九助・田口弥助・丸屋友蔵・角家久三郎・豆腐屋源右衛門・鍛冶屋幸三郎・会田新右衛門・都築清治郎・鍛冶屋清左衛門・米屋庄右衛門・佃屋宇兵衛。

※3 刻まれている名前は、ほとんどが目視で確認できたが、一部、読み取りにくい漢字もあったので、正確を期するために、寄進者名などは、越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の調査報告「平成十三年度 大沢町・越ヶ谷町の石仏 平成三十一年七月改訂」越谷市立図書館所蔵、49-50頁に従った。

台石|右側面

台石|右側面

右側面に刻まれている名前は、□□□伊兵衛・丁子屋平兵衛・会田弥兵衛・飴屋平右衛門・大野新左衛門・灰問屋冶良兵衛・舟橋清兵衛・八百屋武兵衛・八百屋源太郎・肴屋長治郎。

台石|裏面

台石|裏面

裏面は「文政十丁亥年 二月吉日」「世話人」「東正院」の銘と、会田庄右衛門・紺屋甚兵衛・江戸屋長兵ヱ・谷中屋清吉・八百屋丑五郎・青木市五郎・上総屋平吉・船主長兵ヱほか「石工 吉兵衛」の名前が確認できる。

六地蔵石幢

六地蔵石幢

「秋葉大権現」文字塔の隣にあるのは、地元の念仏講中によって建てられた六地蔵石幢(※4)。江戸後期・文化元年(1804)造立。石幢の六面に地蔵菩薩立像(六地蔵)が刻まれている。台石の正面に「三界萬霊」、側面に「當所念佛講中」(当所念仏講中)「セハ人」(世話人)「光念」「たか」「ゑん」、「文化元甲子」「十月吉日」の銘が確認できる。

※4 石幢(せきどう)…六角または八角の石柱(幢身)と、笠や宝珠などからなる石塔の一種。石灯籠に似ている。六面に六地蔵が掘られているものを六地蔵石幢と呼ぶ。

六地蔵

六地蔵

六面の幢身には一体ずつ六地蔵が浮き彫りされている。①香炉を持つ地蔵菩薩②子安地蔵…左手で子どもを抱え、右手に錫杖、足元に子どもが地蔵にすがっている③宝珠を持つ地蔵菩薩④数珠を持つ地蔵菩薩⑤幡を持つ地蔵菩薩⑥天蓋を持つ地蔵菩薩――。

石幢の笠

石幢の笠

本来、六地蔵石幢の上には笠が載っていることが多い。昭和54年(1979)に撮影されたこの六地蔵石幢の写真(※5)を見ると笠が載っているが、平成13年(2001)の調査記録(※6)を見ると笠は載っていない。その間に、落ちたか、外されたと思われる。なお笠は現在、石幢の前に置かれている(上の写真参照)

※5 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)4頁の写真(新町薬師堂境内の地蔵堂)では、石幢の上には笠が載っている。

※6 「平成十三年度 大沢町・越ヶ谷町の石仏 平成三十一年七月改訂」加藤幸一(越谷市立図書館所蔵)、20頁のスケッチ(子安地蔵石幢)には、笠は描かれていない。

庚申塔と地蔵像

庚申塔と地蔵像

六地蔵石幢の横に石仏が二基、並んでいる。
 
向かって右側は、青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。江戸中期・宝暦2年(1752)造立。正面の中央に合掌六臂(※7)の青面金剛像が浮き彫りされている。足元には邪鬼。石塔の最頂部には「日月」が陽刻されている。青面金剛像の左脇に「奉造立庚申尊像」の文字が確認できる。石塔の左側面に「宝暦二壬申」、右側面には「三月吉日」とある。

※7 合掌六臂(がっしょうろっぴ)…手が六本。中央の両手で合掌している。

青面金剛像庚申塔の隣は地蔵菩薩像。舟型光背(ふながたこうはい)型の石塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。造立年代は不詳。横の花立てには花が供えられている。
 
目を左に移すとフェンスの前に石塔が四基並んでいる。

庚申塔と墓石

庚申塔と墓石

四基の石塔は、向かって左から庚申塔・庚申塔・墓石・墓石。

青面金剛像庚申塔|寛政2年

青面金剛像庚申塔|寛政2年

左端は、江戸後期・寛政2年(1790)造立の青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。正面には、日月・青面金剛像・二鶏・邪鬼・三猿が浮き彫りされている。左側面に「寛政二庚戌三月十八日」、右側面には「新町 願主 伊平屋弥兵衛」の銘が確認できる。
 
青面金剛の像容は一面六臂(いちめんろっぴ=顔がひとつで手が六本)。左上手に宝輪、下手に弓、中手で「ショケラ」と呼ばれる合掌した女性の髪の毛をつかんでぶらさげている。右上手では三叉鉾(さんさほこ)、中手で宝剣、下手で矢を握っている。

青面金剛像庚申塔|年代不詳

青面金剛像庚申塔|年代不詳

隣も駒型の青面金剛像庚申塔。年代は不詳。岩の上で邪鬼を踏みつけている青面金剛像が浮き彫りされている。石塔の最頂部には「日月」、岩の中央、両脇に二鶏、岩の下には三猿が陽刻されている。
 
こちらの青面金剛も一面六臂。左上手で宝輪、中手で弓、下手で羂索(けんさく)、右上手で三叉鉾、中手で宝剣、下手で矢を持っている。劣化の状態からみて造立は隣の庚申塔と同じく江戸後期と思われる。

墓石

墓石

庚申塔の横に墓石が二基、並んでいる。どちらも最頂部が欠けている。
 
向かって左側の墓石には三人の戒名が刻まれている。確認できる文字は「秋□童子 明和二酉六月朔日」「晴怡信女 明和五子八月朔日」「一聞童子 明和□□□月□日」。明和(めいわ)の年代は江戸後期。明和2年は1765年、明和5年は1768年。「信女」(しんにょ)は女性、「童子」(どうじ)は男の子の戒名に添えられる称号。
 
右側の墓石にも三人の戒名が刻まれている。「本信女 寛政九巳二月五日」「清信士 安永七戌四月十二日」「教信女 宝暦三酉九月廿三日」などの文字が読みとれる。寛政は江戸後期。寛政9年は1797年。安永は江戸中期。安永7年は1778年。宝暦は江戸中期。宝暦3年は1753年。「信士」(しんじ)は男性の戒名に添えられる称号。

首がとれた地蔵像

首がとれた地蔵像

敷地の奥、角地に首がとれた地蔵像が台石の上に置かれている。地蔵の首がとれているのは、明治初年の排仏棄釈(※8)運動によるものかもしれないが、詳細はわからない。地蔵像の前には「奉納」と刻まれた花立て、後ろには石祠のようなものが並べられている。台石の前にも花立てがあって花が供えられている。

※8 明治初年(1968)、神道を国の宗教にするために、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)が発令され、全国で多くの寺院や仏像などが破壊・焼却された。このときの破壊運動を「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)という。

台石と思いきや

梵字「カーン」

首がとれた地蔵像の台石をよく見ると、何やら文字が刻まれている。地蔵像の背面側には、梵字が見える。梵字は不動明王をあらわす「カーン」と思われる。上の写真の黄色い○印。

「清達」の文字

地蔵像の前に置かれている花立ての前には「清達」という文字が確認できる。上の写真の黄色い○印。

脇銘

さらに台石の右側面には「清達 文化三寅年十二月十八日」と刻まれている(上の写真)。どうやらこの石は、台石ではなく、何かの文字塔か墓標のようだ。

文献をあたってみたところ

この場所(新町薬師堂の石仏群)について記された文献をあたってみた。
 
『越谷ふるさと散歩(上)』に、新町薬師堂を紹介している箇所(※9)があるが、この台石として使われている文字塔または墓標についての記載はなかった。越谷市の石仏や石碑などを調査してまとめた報告書『越谷市金石資料集』(※10)にも該当するものは見あたらなかった。

※9 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)の4頁から6頁に、この場所(新町薬師堂の石仏群)の写真と紹介記事が載っている。

※10 『越谷市金石資料集』(市史編さん四十三年度調査報告)越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)

台石は「東正院」僧侶の文字塔だった

続いて、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏が越谷市全域の石仏を調査してまとめた報告書「大沢町・越ヶ谷町の石仏」(※11)をあたったところ、この台石のスケッチと解説が載っていた。

※11 「平成十三年度 大沢町・越ヶ谷町の石仏 平成三十一年七月改訂」加藤幸一(越谷市立図書館所蔵)、21頁のスケッチと52頁の解説文

この台石は江戸後期・文化3年(1806)に寄進された「東正院」僧侶の文字塔で、正面の最頂部に梵字・カンマン、その下に「阿闍梨東正院法印清達」の主銘があり、右側面には「清達 文化三寅年十二月十八日」と、脇銘が刻まれていることが分かった。

銘

台石の最頂部に刻まれている梵字(上の写真の○印)は「カーン」ではなく「カンマン」だった。「カーン」も「カンマン」も、ともに不動明王をあらわす梵字(種子〈しゅじ〉ともいう)。「清達」(上の写真の□印)は「阿闍梨東正院法印清達」の下二字だった。脇銘(上の写真の左端)の「清達 文化三寅年十二月十八日」は、全文字確認できる。
 
なんと、首のない地蔵像の台石として使われていたのは「東正院」僧侶の文字塔だった。
 
主銘(阿闍梨東正院法印清達)にある「阿闍梨」(あじゃり)は高僧の敬称で、「法印」(ほういん)は僧位の最上位に与えられる称号だ。そんなに偉いお坊さんをたたえる文字塔が、どうして台石に使われてしまっているのだろうか。
 
加藤幸一氏が調査した当時(2001年)は、敷地内に他の石仏と並んで建っていたと思われる。その後、倒れたか、倒されたかして、復旧されずに台石として使われてしまったのではないか。いずれにしても残念なことだ。なんとか復旧できないものだろうか。

この場所(新町薬師堂)の歴史

薬師堂跡地|越谷市瓦曽根一丁目

今回、この場所(新町薬師堂)を調査して、新たに分かったことがある。

澄海寺跡地説と東正院跡地説

『ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)には、この場所は「澄海寺跡地」として紹介されている。対して、「平成十三年度 大沢町・越ヶ谷町の石仏 平成三十一年七月改訂」加藤幸一(越谷市立図書館所蔵)では、この場所は「東正院跡地」としている。どちらが正しいのだろうか。
 
江戸後期、幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』(※12)に、天嶽寺の末寺として「○東西院 当山修験、江戸青山鳳閣寺の配下、医王山と号す、本尊薬師の坐像長一尺三寸、惠心の作といふ」「○澄海寺 羽黒行人派修験、江戸日本橋音羽町普門院配下、本尊大日を安ず」とある。

※12 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「越ヶ谷領○越ヶ谷宿」の項、1148頁

これにより、江戸時代、この周辺(現・瓦曽根一丁目、越ヶ谷一丁目、越ヶ谷二丁目)に、「東西院」と「澄海寺」という修験道の寺院が二箇所あったことが分かる。
 
『ふるさと散歩(上)』(越谷市史編さん室)は、『新編武蔵風土記稿』を根拠に、この場所は「澄海寺」としたようだ。越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏はこの「澄海寺説」は誤りであると異を唱える。
 
この敷地内にある「秋葉大権現」文字塔の世話人に「東正院」の銘が見られること、主銘に「東正院」の文字が含まれている「阿闍梨東正院法印清達」という文字塔があることから、「この地に『東正院』という寺院があったことが裏付けられる」とし、この場所は、澄海寺の跡地ではなく、東正院の跡地であると、「東正院跡地説」をとっている。
 
また、加藤氏は「平成十三年度 大沢町・越ヶ谷町の石仏 平成三十一年七月改訂」で、「『新編武蔵風土記稿』では『東西院』と書かれているが、『東正院』の誤りであろう。」とし、『新編武蔵風土記稿』の誤記も指摘している。
 
加藤氏に真偽を問い合わせてみた。

案内役の加藤氏

澄海寺は新町の八幡社(越ヶ谷2-2-16)の南隣にあった廃寺です。この場所(新町薬師堂)は、東正院跡地が正しいです。『ふるさと散歩(上)』の「澄海寺説」に疑問をもって、地元の調査や古絵図、文書から、この場所は東正院の跡地であると判明しました。また、『新編武蔵風土記稿』には「東西院」と記載されていますが、「東西」という不自然な名称に疑問をもったことで、東西院は誤りで、東正院が正しいことも突き止めました。この件は私しか知りません。

この場所は東正院の跡地だった

地図

[地図の引用元]Googleマップ

加藤氏の検証によって、この場所(新町薬師堂)は「東正院」と呼ばれた修験道寺院の跡地であることが判明した。石仏や石塔の「銘文」には、こうした歴史も刻まれているのだ。奥深いものである。今回の調査では、この場所の歴史をひもとくこともできた。

謝辞

本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。

東正院跡地の場所

東正院跡地(新町薬師堂)への行き方は、東武伊勢崎線・越谷駅東口から市役所前中央通りを直進して二つ目の信号を右折。200メートルほど先のY字路奥の三角地帯。栃木銀行越谷支店の南。住所は越谷市瓦曽根一丁目。道が狭いので車を駐めるスペースはない。

参考文献

参考文献

『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
「平成13年度<大沢町・越ヶ谷町の石仏>平成31年7月改訂」加藤幸一(越谷市立図書館所蔵)
『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』日本石仏協会編/大宝輪閣(平成9年9月25日発行)
『日本石仏事典(第二版)』庚申懇話会編/雄山閣(平成7年2月20日発行)
『新版・石仏探訪必携ハンドブック』日本石仏協会編/青娥書房(2011年4月1日発行)