残しておきたい越谷の風景を写真とともに紹介する。今回は、朝日バス「砂原土手」バス停裏手にある元荒川右岸土手の馬頭観音塔などの石塔群。土手道は舗装されているが、景観はほぼ昔のまま。水と緑に恵まれた水郷こしがやの原風景をとどめている。
砂原堤防の石塔群
朝日バス「砂原土手」停留所の裏から元荒川の土手に上がると、時代から取り残されたように、数基の石塔群が左に見える。
このあたり一帯の土手は「砂原堤防」(すなはらていぼう)と呼ばれてきた。かつては土手の南は見渡すかぎりの水田耕地だったが、今は宅地化が進んでいるものの「砂原耕地」と称された面影は残っている。
40年前の風景描写
昭和54年(1979)に発行された『越谷ふるさと散歩(上)』(※1)に、この石塔群(砂原堤防の石塔群)が、写真とともに紹介されている(以下、引用)
バス停前から元荒川の堤防に昇ってみると、元荒川の曲流を中心にして堤防沿いの砂原側の樹木の茂みと、元荒川対岸に広がる耕地がマッチし自然に富んだ景観をみせる。しかもこの堤上には宝暦三(一七五三)の青面金剛庚申塔(※2)と数基の墓石が立てられており、現代離れした素朴な雅趣を添えている。
引用元: 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)pp.167-168.
※1 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「砂原の集落と久伊豆神社」167頁・168頁
※2 宝暦三(一七五三)の青面金剛庚申塔とあるが、正しくは馬頭観音塔。この馬頭観音塔については後述する。
石塔群の新旧写真
石塔群の新旧写真(※3)
上の画像の白黒写真は『越谷ふるさと散歩』(上)に掲載されている「砂原堤防の石塔群」。撮影されたのは昭和54年(1979)ごろと思われる。その下の2枚のカラー写真は、私が撮ったもの。撮影年月日は令和4年(2022)5月23日。
43年前に撮られた風景とほとんど変わっていないことがわかる。ここもやがては河川敷や土手道が整備され、それに伴って石塔群も撤去または廃棄されてしまうのかもしれない。まさに残しておきたい越谷な風景のひとつである。
※3 白黒写真は『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「砂原の集落と久伊豆神社」167頁から転載した。写真使用許可は所有機関から掲載許諾済
石塔群
石塔群は全部で6基。すべて石塔だと思ったら、1基は木像だった。左から順番に見ていこう。
馬頭観音塔
向かって左端は馬頭観音塔(ばとうかんのんとう)。石塔型式は駒型。江戸中期・宝暦3年(1753)造立。正面中央に主尊の馬頭観世音菩薩立像が浮き彫りされている。最頂部の梵字は「サ」(※4)。脇銘は「奉供養為如是」「畜生發菩提心也」の文字が確認できる。
※4 馬頭観音を表わす種子(しゅじ=梵字)は「カン」が一般的だが、「サ」は菩薩全般に使われるので、この馬頭観世音菩薩も「サ」が使われている。
側面
左側面には「宝暦三癸酉天十一月吉日」、右側面には「越ケ谷領砂砂原村」と、建立者の名前が確認できる。
なお前述の『越谷ふるさと散歩(上)』では、この馬頭観音塔を庚申塔としているが、それは誤り。この石塔は(青面金剛)庚申塔ではなく馬頭観音塔である。
馬頭観音と青面金剛の違い
馬頭観音(左)と青面金剛(右)
庚申塔の主尊として彫られている青面金剛(しょうめんこんごう)は、一見すると、馬頭観音とよく似ている。手が六本あって中央二手で合掌している(青面金剛は合掌していないタイプもある)。顔は怒ったような憤怒顔(ふんぬがお)。
頭髪も似ているが、よく見ると違う。青面金剛は炎のように逆立っていて、馬頭観音は頭に馬の頭を載せている。
庚申塔には、青面金剛のほかに、太陽と月(日月)、邪鬼、二羽の鶏(二鶏)、三匹の猿(三猿)が陽刻されていることが多いが、この石塔には、それが見えない。
また、この石塔に刻まれている「畜生發菩提心」(ちくしょうほつぼだいしん)という言葉も、この像が馬頭観音であることを示している。「發」は「発」の異字体。起こすの意。
「畜生發菩提心」とは、動物や生き物が死んだときに、「これからは宗教心をもって仏道修行にはげみなさい。そうすれば成仏できますよ」と、諭すための仏語。
よってこの砂原堤防の石塔は馬頭観音塔である。
宝珠地蔵|墓塔
右から二番目は、両手に宝珠を持った宝珠地蔵が浮き彫りされている光背型の墓塔。造立年代は不詳。江戸中期から後期ごろと思われる。劣化が進んで、銘はほとんど読みとれないが、「童女」の文字が確認できることから幼女の墓塔と思われる。
櫛型の墓塔|元文3年
右から三番目は、江戸中期・元文3年(1738)の墓塔。石塔型式は櫛型。中央に戒名(帰真天岳成蓮信士)。「信士」(しんじ)とあるので男性の墓塔。脇銘に「元文三戊午年」「四月二十六日」とある。
元文3年(1738)というと、今(2022年)から 284年前。280年以上も(おそらく)この場所で、元荒川の風に吹かれながら砂原の田園風景を見守り続けていると思うと、感慨深い。合掌。
木彫りの恵比須さま
墓塔にはさまれているのは、小さな木彫りの恵比須(えびす)様(と思われる)。最初からここに置かれていたのではなく、砂原地区の民家にあったものをここに置いたと思われる。
墓塔の脇で、目を細めてうれしそうに笑っている顔は、まさにえびす顔。このえびす様も長いことずっと、この土手道を通る人たちを見守ってくださっているのだろうか。こちらも思わず笑顔になる。
宝珠地蔵|墓塔
右から二番目、小さいほうの墓塔は、宝珠を両手で持った宝珠地蔵。石塔の形式は光背型。年代は不詳。江戸中期から後期と思われる。銘は読み取りにくいが、「童女」の位号がついた三人の戒名が刻まれている。
合掌地蔵|墓塔
右端は、合掌しているお地蔵さま(合掌地蔵)が浮き彫りされている光背型の墓塔。お地蔵さまは丸顔でやさしげなお姿をしている。
石塔最頂部の梵字は「サ」。地蔵菩薩を表わす梵字(種子=しゅじ)は「カ」が一般的だが、「サ」は、菩薩全般にも使われるので、種子に梵字の「サ」を刻んだ地蔵菩薩の石塔もたまに見かける。
この墓石にも「空春童女」「幻空童女」「□□童女」と、「童女」の位号がついた三人の女の子の戒名が刻まれている。この墓石を建て、お地蔵様に託した親御さんの気持ちを思うと、切なくなってくる。
残しておきたい風景写真
砂原堤防の石塔群を写真に収めた。撮影年月日は2022年5月23日。将来、元荒川河川敷の拡張工事によって、石塔群が破棄され、土手道の木々か伐採されてしまったとしても、この場所に、水と緑が豊かな河原の原風景があったことを残しておきたい。そんな思いでシャッターを切った。
石塔群には花が手向けられている。これらの石塔や墓塔は、けっして忘れ去られてしまったのではなく、今も砂原の人々の敬虔(けいけん)な心と深く関わり合っている。
ダイジェスト動画
残しておきたい越谷の風景|砂原堤防の石塔群をダイジェスト動画(スライドショー)にしました。所用時間は41秒。本記事のまとめとしてご覧ください。
場所
砂原堤防の石塔群の場所は、越谷市砂原を流れる元荒川の右岸、朝日バス「砂原土手」バス停・標識の裏手から土手をのぼった左手にある( 地図 )。大砂橋から越谷岩槻線(埼玉県道48号)を西へ約300メートル。
参考文献
本記事を作成するにあたっては、引用した箇所がある場合は、文中に引用文献を記した。参考にした書籍および調査報告書を以下に記す。
加藤幸一「荻島地区の石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
越谷市制40周年記念誌編集委員会編『市制施行40年の足跡・ときを超えて』越谷市(平成10年11月発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青砥書房(2011年4月1日発行)