越谷市三野宮の最北部を新方川が西から東へ「く」の字形に曲流する角地(新方川左岸沿い路傍)に並んでいる六基の石塔群を調査した。
六基の石塔|三野宮北東
調査したのは、2024年9月30日。農家の庭先、堀に沿って、六基の石塔が並んでいる。
- 文字庚申塔
- 丸彫り地蔵菩薩像
- 石橋供養塔
- 地蔵菩薩像塔
- 青面金剛像庚申塔
- 道標石塔
それでは向かって右から順番に調べていく。
備考
六基の石塔は、風化が進んでいて、判読できない文字も多々あった。各石塔の銘については、加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館蔵)と照らし合わせた。
文字庚申塔
いちばん右端は文字庚申塔。江戸後期・弘化2年(1845)造塔。石塔型式は角型。正面中央に「奉納青面金剛」と刻まれている。
水鉢
石塔の上に、長方形の水鉢のようなものが載っている。
左側面
左側面の銘は「弘化二巳年十一月吉□」。右側面には奉納者の名前が刻まれている。
丸彫り地蔵菩薩立像
右から二番目は丸彫り地蔵菩薩立像。年代不詳。左手に宝珠(ほうじゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持っている。
石橋供養塔
右から三番目は石橋供養塔。江戸中期・明和3年(1766)造立。石塔型式は隅丸型。正面上部に浮彫の地蔵菩薩座像。下部の主銘は「石橋造立供養塔」。脇銘は「三ノ宮村々中」「並當橋組中」
左側面
左側面には銘文が刻まれている。「右造立」「為」「近在村々男女助成」「二世安楽也」などの文字が読みとれるが、風化で判読できない文字もあり、全体の意味はわからない。
右側面
右側面には「明和三丙戌歳正月吉日」とある。
地蔵菩薩像塔
四基目。左から三番目は、地蔵菩薩像塔(※1)。江戸後期・文化13年(1816)再建。石塔型式は隅丸型。正面の上部に浮彫の地蔵菩薩立像、下部に歌が刻まれている。石塔の状態は悪く、劣化がはげしい。
※1 『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「恩間新田入口」121頁では、この石塔を石橋供養塔としているが、現状では、石橋供養塔を示す銘などは確認できないので、ここでは地蔵菩薩像塔とした。
地蔵菩薩
地蔵菩薩立像は劣化がひどく、顔は判別できない。右手で持っている錫杖(しゅくじょう)は、かろうじて確認できる。左手には宝珠(ほうじゅ)を持っていたと思われる。
地蔵尊の両脇に文字が刻まれているようだが読みとれない。
歌
歌の部分は劣化がいちばんはげしい。風化で歌詞がほとんど、はがれ落ちている。判読不能。冒頭部分の「このみちへ」の文字が、かろうじて読める程度。
昭和55年(1980年)に編さんされた『越谷ふるさと散歩(下)』でも、この石塔の歌詞について「文字がはげ落ちその歌詞は判読できない」(※2)としている。44年前(昭和55年)には、すでに風化が進んでいて、歌詞は判読できなかったようだ。
※2 『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「恩間新田入口」121頁
左側面
左側面の銘は「寛保四子年造立及石□」「文化十三子年三月再建」のほか、世話人三人の名前が刻まれている。
この銘からこの石塔は、江戸中期・寛保4年(1744)に建てられ、72年後の江戸後期・文化13年(1816)に再建されたことがわかる。
再建から208年。このまま朽ち果てていくのだろうか。
右側面
右側面には、寄進者13人の名前が刻まれている。
地蔵尊の部分が、はがれ落ちてしまうのも時間の問題か。
青面金剛像庚申塔
五基目。左から二番目は、青面金剛像庚申塔。江戸中期・元文4年(1739)造塔。石塔型式は駒型。
正面に彫られているのは上から日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿。
青面金剛
青面金剛は合掌型。一面六臂(いちめんろっぴ)。両手で合掌。左上手に宝珠、下手に矢、右上手に宝剣、下手に弓を持っている。
邪鬼と三猿
青面金剛の下には、正面を向いた邪鬼が、腕立て伏せをしているような姿で、青面金剛に踏みつけられている。
邪鬼の下は三猿。左から、言わ猿、聞か猿、見猿。
左側面
左側面の銘は「奉建立庚申為二世安楽也」と、五人の名前。
右側面
右側面には「元文四己未十一月十七日」「三野宮村」のほか、五人の名前が刻まれている。
道標石塔
六基目。向かって左端は、道標石塔。江戸後期・嘉永5年(1852)造塔。石塔型式は駒型。
正面上部には「東かすかべ一り半」「西のしま廿丁」「西しおんじ二り」と刻まれている。下部には歌が刻まれているが、劣化がひどく歌詞は判読不能。下部の左端に「手引石」とある。
「東かすかべ」は「東は粕壁」(現・春日部)、「西のしま」は「西は野島」(越谷市野島)、「西しおんじ」は「西は慈恩寺」(さいたま市岩槻区慈恩寺)。「手引石」とは道しるべのこと。
右側面
右側面の上部には「北の道」と刻まれ、下部には四人の名前がみえる。「北の道」は「北は野道(のみち)」。野道は野原や田畑の中にある道のこと。
左側面
左側面には「嘉永五子年八月吉辰」のほか、文字が刻まれているが、判読できない。
石塔群の元の場所
六基の石塔はもとは別の場所にあった。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は次のように述べている。
石橋そばにあるこれらの石仏・石塔はもとは別の所にあった。現在の新方川(千間堀)は、かつてはここより道路を南に約七十五メートルほどいった地点を流れていた。そこに橋が架かっていて、その橋のふもとにこれらの石仏・石塔があったという。
引用元:「大袋地区石仏」(※3)
※3 加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館蔵)65頁
新旧写真
上段の白黒写真(※4)は、今から45年ほど前、昭和54年(1979年)ごろに撮影されたと思われる六基の石塔群。石塔が並んでいる順番は今と同じ。当時はトタン屋根の下に並べられていた。
下段の写真は2024年9月30日に私が撮影したもの。
※4 出典は越谷市デジタルアーカイブ( 恩間新田入口石塔群)
昔の写真
上の白黒写真は、正面から撮影された昔の写真(※5)。昭和54年(1979年)ごろの撮影か。今は朽ちかけている左から三番目の地蔵菩薩塔もまだ劣化が進んでいない。貴重な写真だ。
※5 出典は越谷市デジタルアーカイブ( 恩間新田入口石塔群)
場所
六基の石塔がある場所は、獨協埼玉中学高等学校の南東200メートル。法光寺の南100メートル。新方川が「く」の字形に曲流する角地。新方川左岸沿い路傍( 地図 )
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参考文献
本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。
加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9.10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)