恩間新田の石仏
出羽三山供養塔
出羽三山供養塔の前に到着。
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石塔型式は山状角柱型。江戸後期・嘉永2年(1849)造塔。正面の主銘は「羽黒山 湯殿山 月山 三社大権現」。最頂部に、瑞雲に乗った日月、その下に梵字「アーンク」
山形県の中央にそびえる羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称。古くから信仰の対象として崇められてきた。
羽黒山は「現在」、月山は「過去」、湯殿山は「未来」を表わしているとされ、三山を巡礼することで、生きながら新しい魂に生まれ変われるという信仰が、江戸時代、庶民の間で広まった。
江戸時代には各地で講(こう)が組織され、毎年、順番で出羽三山を参拝し、その記念として供養塔が造立された。
左側面
左側面の脇銘は、「天下泰平」「五穀成就」「嘉永二己酉三月」
右側面
右側面には「武州埼玉郡」「恩間新田講中」とある。
台石
台石には、講員10人の名前が刻まれているほか、「恩間邑」「増田新田」の銘が確認できる。
恩間邑と増田新田の銘から、恩間新田講中には、恩間新田だけではなく、恩間村と増田新田の村落民も参加していたことがわかる。
増田新田は、現在の春日部市増田新田。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』では、埼玉郡岩槻領に属するが、明治9年に編さんされた『武蔵野国郡村誌』には、埼玉郡新方領に属するとある(※19)
※19 (出典)JapanKnowledge(https://japanknowledge.com)「増田新田」日本歴史地名大系 (2024年6月8日閲覧).
続いて、最後の調査場所へ向かった。
最後の調査場所へ
最後に調査するのは、新方川に架かる橋を渡った袂(たもと)、四辻(よつじ)にある道標石塔。出羽三山供養塔からは約80メートルの場所にある。