松尾芭蕉『おくのほそ道』の初日は、千住をあとに、その日は草加に着いたとある。随行した曽良の記した『曽良旅日記』には「二十七日夜、粕壁泊まり。江戸から九里」と書かれている。初日は草加に宿泊したように書かれているが、実際に芭蕉と曽良が泊まったのは粕壁(現在の春日部)だった。

越谷は素通りされた

越ヶ谷宿

同じ日光街道の宿場町である草加と粕壁は出てくるのに、日光街道三番目の宿場町として栄え、規模だって草加宿や粕壁宿よりも大きかった越ヶ谷宿の「こ」の字も出てこないとは何ごとか。素通りされた越谷市民のボクとしてはヒジョーにおもしろくない。
 
越谷市民としては松尾芭蕉にはぜひとも越ヶ谷宿に泊まってほしかった。
 
ということで――
 
時計の針を三百三十二年前まで巻き戻し、江戸中期・元禄二年(一六八九)三月二十七日(新暦五月十六日)に江戸・深川をたった松尾芭蕉に、初日、草加ではなく、越谷に泊まってもらった。しかもたいへん居心地がよかったので三日間の滞在になった。
 
その様子を芭蕉は『おくのほそ道』に次のように書きとめた。

越ヶ谷の宿

越ヶ谷という宿場に着いた。江戸から六里八町。旅籠の数は五拾を超える。飯盛り旅籠もなかなかの盛況ぶりである。飯盛り旅籠に泊まるのだけは慎んでくれと同行の曽良に釘をさされた。
 
そこへ宿場の長をつとめる会田某という者がやってきて、ぜひにと屋敷の別邸を宿に提供してくれた。その夜は望外な歓待を受け、間久里の鰻が饗された。
 
翌日、会田某の案内で大聖寺に参詣。大権現様が、関ヶ原の戦いの前に戦勝祈願をし、鷹狩りの折にも宿泊した寺だという。大権現様のご神徳にすがり、三千里となる長旅の無事を祈った。
 
舟で元荒川を上る。
 
天嶽寺と久伊豆の社を参拝し、会田家に戻る。
 
夜は会田家で句会を催した。越ヶ谷は、俳諧がさかんなところとみえ、袋山・西新井・七左衛門などの村から俳諧連衆が次々とやってきた。風流を求める旅の置き土産として、歌仙三巻を巻いた。
 
翌朝、ぎょうだいさまという役小角の烏天狗をかたどった神像に道中の安全を願い、娘に編ませたといって、蒲生村の大熊彦兵衛という主が、草履をはなむけに届けてくれた。会田某は焼き米を餞別にと持たせてくれた。
 
遠くで聞こえる鐘の音が、別れを惜しんでいるかのようで心にしみた。
 
花の雲鐘は越ヶ谷天嶽寺(はせを)

後記

本記事は、おくのほそ道の旅の途次、松尾芭蕉と随行者の曽良が越ヶ谷に宿泊した、という架空の話で、いわば、「おくのほそ道風作り話」である。松尾芭蕉と随行者の曽良が越ヶ谷宿に宿泊した、という記録はない。

追記|弥次さん喜多さんは越谷に立ち寄った

奥羽道中膝栗毛

松尾芭蕉には素通りされてしまった越谷だが、ナント、かの弥次喜多道中で有名な、弥次さん喜多さんの二人は、十返舎一九著『奥羽道中膝栗毛』の中で、越谷に立ち寄っている。これはほとんど知られていない。
 
奥羽(東北)をめざし、江戸をたった弥次さん喜多さんは、浅草・上野・竹の塚・草加をへて、越谷の蒲生村に立ち寄った。柳屋(やなぎや)という店で、名物の大せんべい(塩せんべい)を食べたあと、越ヶ谷宿に入り、間久里(まくり)のうなぎ屋で、一杯やりながらうなぎを食べた。
 
この話(『撰粋 奥羽道中膝栗毛』十返舎一九:著/尾花庵二十坊:主撰)は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているので、文語体の『奥羽道中膝栗毛』を精査し、弥次さん喜多さんが越谷に立ち寄ったくだりを口語訳にして別記事で紹介しようと思う。乞うご期待。
 

※上の画像(『撰粋:奥羽道中膝栗毛』表紙)は
国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/878230 )から転載した。