大林の石仏

大林寺

大林寺|越谷市大林

大林寺に到着(越谷市大林29-1)。江戸中期・享保5年(1720)創建と伝えられる曹洞宗の寺院。もともとは野島浄山寺の隠居寺(いんきょでら)で、戦前までは尼寺だった。
 
大林寺は、上述の大林河畔砂丘でいちばん標高が高い地点に位置している(※2)

※2 秦野秀明(2021)「越谷市内の『河畔砂丘』及び『自然堤防』の標高」

関連文献

越谷市内の河畔砂丘の標高については、越谷市郷土研究会の秦野秀明氏が、「越谷市内の『河畔砂丘』及び『自然堤防』の標高」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/211215_hyohkoh_h_h.pdf

石塔

大林寺では、4基の石塔を調査した。

  1. 大乗妙典供養塔
  2. 法華塔
  3. 百八十八箇所巡拝塔
  4. 百八十八箇所巡拝塔

山門前

大乗妙典供養塔

大乗妙典供養塔

山門前にある石塔は、大乗妙典(だいじょうみょうてん)供養塔。江戸中期・寛保元年(1741)造塔。主銘に「奉読誦 大乗妙典 一千部供養塔」と刻まれている。
 
大乗妙典とは、法華経(ほけきょう)と呼ばれている仏教の経典で、この石塔は、大乗妙典を千回、読誦(どくじゅ)した記念に建てられた。
 
この石塔は、土の中に埋められていた。
 
『越谷ふるさと散歩(上)』(昭和54年発行)によると、この石塔は、「最近、街道修理の際地中から掘り出されたものといわれるが、なぜ当所に埋められたかは不明である」(※3)という。

※3 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「埼玉鴨場と大林寺」134頁

 
続いて墓地に移動。

墓地

卵塔墓石と法華塔

墓地では三基の石塔を調べた。
 
墓地の一隅に、開山僧をはじめ歴代住職の卵塔墓石が置かれていて、その前に、「法華塔」(ほっけとう)と刻まれた大きな石塔と、裏側に、小さな石塔が二基、並んでいる。

法華塔

法華塔

法華塔。江戸後期・文政2(1819)造塔。石塔型式は隅丸型。正面の主銘は「法華塔」。この石塔は、法華経(妙法蓮華経)を千回、読誦(どくじゅ)した記念に建てられた(※4)

※4 右側面に刻まれている説明文(漢文)の中に、「法華読誦一千部既量畢立塔供養」という文字が確認できる。

右側面

脇銘

この石塔を建立した経緯が、漢文で刻まれている。
 
末尾に「大林璉山叟識」とあるが、璉山(れんざん)は、当時の大林寺の住職。璉山について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は「この石塔の文を書いた 璉山和尚 はこの寺院の中興(ちゅうこう)である」(※5)と述べている。中興は再建と同義。

※5 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)106頁

大林寺と璉山和尚

大林寺と 璉山和尚 について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は次のように述べている。以下、引用・抜粋。

大林寺は、江戸中期・享保5年(1720)に、大震(だいしん)和尚が、大林庵(だいりんあん)と称し、創建したのが始まりである。大震和尚没後、三人の僧侶が相次いで隠居寺にしたが、その後は、無住の寺となり荒れ果てた。
 
そこで、璉山和尚が、倒壊寸前の堂宇を三人の弟子に修復再建させ、大林寺と改称した。その後、璉山和尚は、江戸後期・享和年間(1801-1807)に、大林寺に隠居され、弟子を養成するなど、大林寺の中興となる。
 
璉山和尚は、江戸後期・文化12年(1815)に、尼僧に住職を受け継がせ、以後、戦前まで、尼僧が代々住職を引き継ぎ、尼寺として知られた。

※6 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)106頁

左側面・裏面

脇銘

左側面と裏面には、尼上座・尼庵主・禅尼・尼首座・沙弥(しゃみ)・尼和尚など、尼僧37人の名前が、刻まれている。

巡拝塔

巡拝塔

法華塔の裏側に並んでいる二基の石塔は、巡拝塔。

百八十八箇所巡拝塔|天保4年

百八十八箇所巡拝塔

向かって左側は、江戸後期・天保4年(1833)造塔の百八十八箇所巡拝塔。
 
正面中央の主銘は「奉巡拝 西国 四国 秩父 坂東 供養塔」。脇銘は「慈海貞音尼庵主」「智俊貞鏡尼上座」
 
この石塔は、日本百観音(西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所)と、四国八十八ヶ所、合わせて 百八十八箇所の観音霊場 を巡拝した記念に建てられた。

百八十八箇所の観音霊場

日本百観音は、西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を合わせた100か所の観音霊場。
 
西国三十三所(さいこくさんじゅうさんしょ)は、(江戸から見て西に位置する)京都・近畿・中部地方の三十三か所に散在する観音菩薩を祀る霊場。
 
坂東三十三所(ばんどうさんじゅうさんしょ)は、関東地方にある、観音菩薩を安置する33か所の霊場。
 
秩父三十四所は、秩父盆地(埼玉県)に点在する34か所の観音霊場。

右側面

脇銘

右側面の脇銘は「慈海 智俊」「天保四癸巳九月廿三日」
 
「慈海」(慈海貞音尼庵主)「智俊」(智俊貞鏡尼上座)二人の尼僧が、百八十八箇所の観音霊場を巡礼して、この巡拝塔を造塔したと思われる。

左側面

脇銘

左側面には、「上座」「信女」「沙弥」「信士」「居士」「大師」などの諡(おくりな)をもった13人の戒名などが刻まれている。

百八十八箇所巡拝塔|文政11年

百八十八箇所巡拝塔

向かって右側は、江戸後期・文政11年(1828)造塔の百八十八箇所巡拝塔。
 
正面中央の主銘は「奉巡拝 西国 四国 秩父 坂東 供養塔」
 
この石塔も、日本百観音(西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所)と、四国八十八ヶ所、合わせて百八十八箇所の観音霊場を巡拝した記念に建てられた。

側面

脇銘

左側面の銘は「文政十一戊子六月」「願主 越後大圓 尾州碩苗 尼」
 
右側面には「信士」「信女」「童子」「尼上座」「和尚」などの諡(おくりな)をもった20人の戒名などが刻まれている。

秋葉神社と稲荷社

秋葉神社と稲荷社

境内の片隅(南側)に、秋葉神社と稲荷社が祀られている。
 
二社を勧進(かんじん)したのは、大林寺の開祖・大震和尚(だいしんおしょう)で、大震和尚は、「万人講(まんにんこう)を取り立て、毎年七月には大施餓鬼供養を執行するなど衆人の教化につとめた」(※7)という。

万人講とは

神社・仏閣に参詣したり、堂塔の建立修理などに寄進したりするために、多人数で作る信仰者の集まりのこと。

※7 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「埼玉鴨場と大林寺」133頁

秋葉講

また、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、「秋葉神社に祀られる秋葉権現は火伏せの権現様で、秋葉信仰は密集した木造長屋の多い江戸市中で盛んで、この地もかつては大林寺の秋葉神社の秋葉講が盛んであった」(※8)と、述べている。

※8 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)106頁



大林寺の調査はこれで終了。次の調査地点へ向かう。

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旧日光街道|大林地区

大林寺を出て旧日光街道にぶつかったら左へ。100メートルほど歩くと、信号のある丁字路に着く。
 
丁字路を左に折れると、大野島越谷線(埼玉県道325号)。 越谷梅林公園を左に見て草加バイパス(元荒川橋交差点)に出る。旧日光街道をそのまま直進すると、東武伊勢崎線を超えて大里方面に出る。
 
この丁字路に、かつて道しるべがあった。