植木屋人形店
10時30分。続いて訪れたのは植木屋人形店(越谷市越ヶ谷2-7-3)。江戸中期・安永年間(1772年~1780年)に、越谷で雛人形の製作と販売を始めた老舗人形店。
会田家と越谷人形の歴史
15代目・当主の会田正三(あいだしょうぞう)さん(90歳)が、会田家と越谷の人形作りの歴史について話をしてくれた。
会田家は、平安前期の清和天皇の子孫にあたり、信濃国(現・長野県)の武将でしたが、武田信玄に敗れて越ヶ谷に落ち延び、植木屋を営んだことから「植木屋」の屋号になりました。その後、今から200年前の江戸中期(安永年間)、植木屋人形店の創業者である会田左右衛門が江戸で人形作りを学び、越谷で人形の制作を始めたのが、越谷ひな人形の起源です。
越谷雛
上の写真は、昭和57年(1982年)から昭和61年(1985年)までの4年間、NHKの正面玄関に飾られていた越谷雛。京都とも江戸とも少し違う気品にあふれた優雅な顔立ちが評判となった。
越谷雛の特徴
越谷雛の特徴は五人囃子や三人官女の袴。何枚もの布が重ねて作られている。芸術品ともいえる美しさは職人技の結晶。最近の雛人形はコストを下げるために五人囃子や三人官女の袴は一枚で作られているものが多い。
重陽の節句展
店内には「おとなのひなまつり後の雛(のちのひな)重陽の節句展」と題して、歴史的価値のある雛人形や重陽の節句を祝う菊酒(きくざけ)や菊の被綿(きくのきせわた)が展示されていた。
菊酒
菊酒(きくざけ)。菊酒とは重陽の節句に飲む菊の花を浸した酒のこと。厄除けや不老長寿を願って飲む古来からの風習。
菊の被綿
真綿をかぶせた菊の花。これは「菊の被綿」(きくのきせわた)と呼ばれ、重陽の日(旧暦九月九日=新暦だと十月中旬)の前夜、菊の花に真綿をかぶせ、翌朝、朝露を含んだ綿で体を拭くと、長生きできる(若返る)といわれた。
ひな人形のパーツ
ひな人形をつくるときのパーツもが飾られていた。ひな人形が完成するまでには、何人もの職人が携わっている。髪付師・頭師・手足師・小道具師・着付師…。たくさんの職人たちのていねいな仕事の積み重ねによって、美しいひな人形が生まれる。
越谷段雛
こちら(上の写真)は、江戸時代(享保年間)の奢侈禁止令(しゃしきんしれい)によって作られた越谷段雛の複製。
奢侈禁止令で、豪華なひな人形の制作が禁じられたので、小さな箱の中に段をつけて、けし粒のような雛(ひな)を並べた段雛(越谷段雛)が作られた。
「御小屋雛」(おこやびな)とも呼ばれ、徳川家にも収められていた貴重なひな人形。会田氏によると「今は本物は日本に三点しか現存していない」そうだ。
旧田中米穀店|菱形の銅板戸袋
植木屋人形店の次に訪れたのは旧田中米穀店(※1)。昭和初期に建てられ、二階の菱形をした銅板戸袋(とぶくろ)が特徴的。
※1 田中米穀店は2020年に廃業
行徳屋|網代型の銅板戸袋
田中米穀店の斜め前にある行徳屋(ぎょうとくや)。田中米穀店の二階の銅板戸袋は菱形だが、行徳屋の二階の銅板戸袋は網代(あじろ)型。どちらの戸袋も遊び心が感じられる。
旧横田診療所
続いて訪れたのは旧横田診療所(埼玉県越谷市越ヶ谷3-2-30)。昭和10年(1935年)築。桃色の外観が目を引くレトロ感ただよう西洋風の木造二階建て。
昭和35年(1960年)までは郵便局として使われていた。昭和24年(1949年)に、国内初の女性郵便局長として会田俊(あいだ・とし)さんが、越ヶ谷郵便局の局長に就任。新聞などでも話題になった。
日本人の大工が建てた
この建物は、洋風を意識した横板張り(南京下見板張り=なんきんしたみいたばり)が特徴です。日本人の大工が建てました。かつては大谷石の塀で囲まれていましたが、老朽化のため撤去されました。
横田診療所は、院長が昨年(2021年)亡くなったために閉院となった。歴史的にも貴重な建造物なので、なんとか残してもらいたい。
油長内蔵
11時10分。油長内蔵(あぶらちょううちくら)に到着。江戸時代、油長(あぶらちょう)という屋号で油屋を営んでいた旧家の古い内蔵を2015年に曳家(※2)をしてこの場所に移して改修。まちづくり相談処「油長内蔵」として再生された。
※2 曳家(ひきや)とは建築物を解体せずにそのまま水平移動させて他の場所に移すこと。
1階部分はカフェスペース(まち蔵カフェ)、2階は展示スペースになっていて、イベントや日替わりショップなどの運営も支援している。