二基の庚申塔

十字路の角にトタン屋根の鞘堂(さやどう)があり、二基の庚申塔が置かれている。向かって左にあるのは、江戸中期・元禄17年(1704)造立の青面金剛像庚申塔。

道標付き文字庚申塔

道しるべ

右側は、道しるべを兼ねた文字庚申塔。江戸後期・嘉永7年(1854)造立。正面の主銘は「庚申塔」。左側面に「右乃だミち」(右、野田道)、左側面に「左ふどう道」(左、不動道)と刻まれている。

加藤氏

この庚申塔の道しるべなどは、かつては野田街道(猿島道)の角地にあったものをここに移したものです。猿島道を大沢方面に進んで不動尊に行く遠回りの道に対して、野田街道からここで外れて、千間堀沿いに進む近道となります。地元でも不動尊にいく近道と伝えられています。

増林用水護岸記念碑

増林用水護岸記念碑

十字路から、30メートルほど歩いた先、かけい堀の向かい側の路傍に、柱状型の石塔が建っている。この石塔は、昭和29年(1954)建碑による増林用水護岸記念碑。正面に「増林用水護岸記念碑」と刻まれている。
 
護岸(ごがん)とは、水路を洪水から守るために、コンクリートやブロックなどで補強すること。秦野氏が、この石塔についての補足をしてくれた。

秦野氏

この碑に刻まれている「増林用水」は、「かけい堀」のことを指すのではなく、「増林地区の用水」を総称しています。

用水路の鉄柵

用水路の鉄柵

増林用水護岸記念碑の脇は水門になっている。水門には鉄柵がはめ込まれているが、用水路にはところどころにこうした鉄柵がある。「この赤い鉄柵は、洪水などで用水路が崩れないように、地盤を補強するためのもの」と、秦野氏が教えてくれた。

かけい堀|砂利道

かけい堀

かけい堀に沿って、砂利道を南東に進む。このあたりは越谷市でも有数な水田地帯。広大な田園風景が広がっている。前方の左手に見える杜(もり)は、次の訪問先、護郷神社(もりさとじんじゃ)。

古道跡

十字路|古道跡

かけい堀に沿った砂利道を進むと十字路に出る。斜め左に行くと護郷神社。右に行くと宮野橋。かつて、宮野橋から護郷神社(旧・浅間社)に続く古道があった、と、案内役の加藤氏が説明してくれた。

浅間社(護郷神社)に向かう古道

浅間社(護郷神社)に向かう古道

地図はGoogleマップを使用して加工した。

上の画像は、加藤氏の解説をもとに、宮野橋から護郷神社(旧・浅間社)に続く古道跡と現在の道を示したもの。緑が古道跡。赤が現在の道。青い丸印は、加藤氏が古道について解説してくれた場所。古道が今でも一部残っているのが分かる。

古道を歩いて護郷神社へ

古道を歩いて護郷神社へ

十字路を斜め左に曲がって、古道(砂利道)を歩きながら護郷神社(旧・浅間社)に向かった。前方左手の杜が護郷神社。砂利道の両側は田んぼ。江戸時代にタイムスリップしたような気分になった。

加藤氏

このあたりは「宮田」(みやた)と呼ばれ、お宮さん(浅間神社=現・護郷神社)に奉納する米を作る田んぼがあったと伝わっています。

護郷神社

護郷神社

護郷神社(もりさとじんじゃ)に到着。住所は越谷市増林3199。古利根川と元荒川に挟まれた増林のほぼ中央に位置している。増林村の鎮守で、かつては浅間神社(せんげんじんじゃ)と称された。
 
大正2年(1913)に近隣の10社を合祀。郷土を守護する神々を祀る神社、という意味で、社名を「護郷神社」に改めた。

二基の庚申塔

二基の庚申塔

護郷神社では鳥居の横にある二基の庚申塔を見学した。右側は、江戸後期・文政7年(1824)の文字庚申塔。石塔の形式は角型。正面に「庚申塔」と刻まれている。

板碑型三猿庚申塔

板碑型三猿庚申塔

左は、江戸前期・貞享2年(1685)の庚申塔。正面中央の主銘は「奉造立庚申青面金剛」。最下部には「おくに」「太郎兵衛」など寄進者の名前が見える。

加藤氏

この庚申塔は、江戸時代の初期に多く見られる板碑型の庚申塔です。主銘の下には、見ざる・聞かざる・言わざるの三猿(さんえん)が刻まれています。


護郷神社の見学を終える。

古代蓮の自生地

古代蓮の自生地

護郷神社の鳥居から南東50メートルのところに三角地帯の休耕田がある(上の写真)。ここには古代蓮が自生していて、毎年、6月から7月にかけて花を咲かせる、とのこと(同行した大谷氏談)

増林の古代蓮については越谷市郷土研究会・山本泰秀氏が「増林と古代蓮」で論考されている。山本泰秀氏の「増林と古代蓮」は越谷市郷土研究会のホームページで閲覧可能。
http://koshigayahistory.org/161.pdf