墓塔群
石塔群の反対側、ブロック塀沿いには、廻国塔が1基と墓塔が11基、計12基の石塔が並べられている。主だったものを見ていく。
六十六部廻国塔
向かって右から三基目は六十六部廻国塔(※8)。江戸中期・享保14年(1729)像塔。石塔型式は隅丸型。
※8 六十六部廻国塔(ろくじゅうろくぶ・かいこくとう)とは、大乗妙典(だいじょうみょうてん)とも呼ばれる法華経(ほけきしょう)を66部写経し、全国66か国の寺院を巡礼して、1部ずつ奉納した記念に建てられた供養塔のこと。
銘
正面最頂部に梵字「ア」。中央の主銘は「奉納日域□中六拾六部供養宝塔也」。脇銘は「享保十四己酉天」「閏九月初日」「施主 平方南衆中」「願主 常誉幻遊」「敬白」
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は「日域とは日本」、「□中は国中(か)」と述べている(※9)。「日域□中」=「日本国中」
※9 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂(越谷市立図書館蔵)「女体社」46頁
無縫塔
向かって右から 4、6、9基目は無縫塔(むほうとう)。無縫塔とは、僧侶の墓塔で、塔の形が卵形をしていることから卵塔(らんとう)とも呼ばれる。
右から 4基目の無縫塔(上の1番目の写真)の造塔は、江戸中期・元禄5年(1692)。主銘は「権大僧都法印賢盛不生位」(※10)。墓塔群の中では、もっとも古いと思われる。
※10 権大僧都(ごんだいそうず)は、僧侶の位(僧階)のひとつ。法印(ほういん)は、高位の僧に与えられる称号。不生位(ふしょうい)は、僧侶の戒名の下に用いられる位号(いごう)
自然石の墓塔
右から二番目。自然石の石塔は、僧侶の墓塔。江戸後期・天保10年(1839)造塔。無縫塔が線刻で描かれていて、中に銘文が刻まれている。
最上部に梵字「ア」。主銘は「権大僧都法印祐真不生位」。脇銘は「天保十年己亥」「八月廿七日」
墓塔|文字塔
文字塔の墓塔が 4基。僧侶の墓塔であることを示す「法師」(文化8年)「法師」(文政5年)「不生位」(享保3年)などの称号が見られる。
墓塔|刻像塔
主尊が陽刻された墓塔が 4基。①天明4年の地蔵墓(称号)「権大僧都法印」。②元禄7年の大日如来墓(称号)「居士」。③如意輪観音墓(称号)「禅定尼」。④享保7年の地蔵墓(称号)「大阿闍梨」「不生位」
西光院
神社になぜ墓塔があるのか。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると「女体神社の東側隣接地あたりは、西光院と呼ばれる寺院跡地で、寺院跡地にあった石仏群が境内にまとめられている」(※11)という。
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「平方村」の項にも「西光院 新義真言宗、尾ケ崎村勝軍寺末、如體山と号す、本尊阿弥陀」(※12)とある。
「尾ケ崎村」は、旧埼玉郡岩槻領に属していた村(現・さいたま市岩槻区尾ヶ崎)。勝軍寺(しょうぐんじ)は今もある。
※11 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂(越谷市立図書館蔵)「女体社」46頁
※12 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「平方村」185頁