越谷市平方の天草病院角地(会の川暗渠上)にある石塔群を調べた。調査した石仏を写真とともにお伝えする。

六基の石塔群

六基の石塔群|越谷市平方

調査日は2025年7月13日。調べた石塔は全六基。

  1. 馬頭観音文字塔|寛永2年
  2. 地蔵菩薩像塔|年代不詳
  3. 馬頭観音像塔|寛政3年
  4. 馬頭観音像塔|年代不詳
  5. 馬頭観音像塔|文化5年
  6. 石橋供養塔|宝暦6年
石塔群の場所

六基の石塔群|会の川

石塔群の下を流れているのは会の川。向かって左手(天草病院側・会の川左岸側)は越谷市平方、右手(会の川右岸側)は春日部市備後東(びんごひがし)
 
今は、会の川暗渠(※1)上(越谷市と春日部市との市境)に石塔がまとめられているが、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、かつては、「会の川の左岸(越谷市平方側)天草病院の北西角地に祀られていた」(※2)という。
 
六基の石塔のうち寄進者銘が確認できるのは二基だけだが、いずれも「平方村」と刻まれているので、かつては越谷側(平方村)にあったという加藤氏の話と一致する。

※1 暗渠(あんきょ)…水面が見えないように、ふたがしてある水路や排水溝。

※2 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂(越谷市立図書館蔵)「会野川筋路傍」54頁

 
石塔は、前列に三基、後列に三基、横に並んでいる。

馬頭観音文字塔|寛永2年

馬頭観音文字塔

一基目。後列の向かって右端は、馬頭観音文字塔。
 
石塔の下部が欠損している。
 
江戸後期・嘉永2年(1849)造塔。石塔型式は山状角柱型。正面の主銘は「馬頭観□」(□は「音」と思われる)。脇銘は「寛永二酉」「十二月十□」。右側面には寄進者ふたりの名前が刻まれている。

馬頭観音

馬頭観音(ばとうかんのん)は、江戸中期以降、農耕や運搬などで馬を使役する人々によって信仰され、馬の供養や往来の安全を願って、路傍や馬捨場などに供養塔が建てられるようになった。「馬頭観世音」など文字だけを刻んだものと、馬頭観音の彫像が彫られているものがある。

地蔵菩薩像塔|年代不詳

地蔵菩薩塔

二基目。後列の真ん中は、地蔵菩薩像塔。
 
石塔型式は舟型。年代不詳。中央に宝珠(ほうじゅ)と錫杖(しゃくじょう)を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。顔の劣化がひどい。
 
正面最頂部に、地蔵菩薩を表わす梵字「カ」。向かって右の脇銘は「設我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚」。向かって左には、梵字で「ナムアミダブツ」と刻まれている。

馬頭観音像塔|寛政3年

馬頭観音像塔

三基目。後列の向かって左端は、馬頭観音像塔。
 
江戸後期・寛政3年(1791)造塔。石塔型式は駒型。上部に馬頭観音座像が陽刻されている。馬頭観音は、宝冠に馬頭をいただき、馬口印(まこういん/ばこういん)を結んだ姿をしている。

馬口印とは、

馬頭観音特有の印相(いんぞう=手のポーズ)のこと。胸の前で左右の親指・中指・小指を立て、残りの指を曲げて手のひらを合わせる。石仏では細かい指の形を細部にわたって表現するのはむずかしいので、簡略化されたり工夫して彫られている。

下部|銘

銘

下部に刻まれている主銘は「與(与)楽離三」。「与楽離三」の意味は分からない。脇銘は「寛政三辛亥年」「十月廿四日」
 
越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の現地調査報告書(※3)によると、最下部に「施主」「六良左衛門」の銘が刻まれているのだが(※4)、土に埋もれていて目視で確認することはできなかった。

※3 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂(越谷市立図書館蔵)「会野川筋路傍」13頁

馬頭観音像塔|年代不詳

馬頭観音像塔|年代不詳</h4>
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四基目。前列の向かって右端は、馬頭観音像塔。
 
年代不詳。風化が進んでいて銘は確認できない。石塔型式は舟型。正面中央に馬頭観音立像が浮き彫りされている。
 
馬頭観音の姿は一面六臂(いちめんろっぴ=顔がひとつで腕が六本)。宝冠に馬頭をいただき、両手で馬口印(まこういん/ばこういん)を結んでいるようにも見えるし、合掌しているようにも見える。
 
持物は、左上手に法輪、左下手に矢、右上手に宝剣、右下手に弓。

馬頭観音像塔|文化5年

馬頭観音像塔

五基目。前列中央は、馬頭観音像塔。
 
江戸後期・文化5年(1808)造塔。石塔型式は駒型。上部に浮き彫りの馬頭観音座像、下部に銘が刻まれている。

像容

馬頭観音座像

蓮台(れんだい)の上に座した馬頭観音は、頭に馬頭をいただき、両手で馬口印(まこういん/ばこういん)を結んでいる。表情は劣化によって判断しかねるが、忿怒相(ふんぬそう)にも見える。

主銘

銘

下部の正面中央の主銘は「馬頭観音」。脇銘は「馬持中」(うまもちじゅう)と刻まれ、寄進者8人の名前が刻まれている。
 
馬持中とは、馬を持っていた農家の人たちの集まり。この馬頭観音塔は平方村の馬を持っていた人たちによって建立された。

脇銘

銘

左側面(向かって右側面)には「文化五辰四月」とある。

石橋供養塔|宝暦6年

石橋供養塔

六基目。前列の向かって左端は、石橋供養塔。
 
宝暦6年(1756)造塔。石塔型式は隅丸角柱型。
 
正面の上部中央に名号「南無阿弥陀仏」が刻まれている。脇銘は「宝暦六丙子十二月日」「施入面々二世安楽」。正面下部の主銘は「石橋供養塔」。脇銘は「平方村願主法誉一心」「同音誉覚山」

銘|左側面

銘

左側面(向かって右側面)の銘は「林西寺十九主到誉代」

銘|右側面

銘

右側面(向かって左側面)には、18の村名が刻まれている。
 
粕壁・市割・備後
新町・大畑・大枝
薄谷・中村・大場
大松・船渡・大泊
藤塚・川崎・大杉
大川戸・赤沼・銚子口
 
この石塔は、「平方村から会野川対岸の備後村(びんごむら)に渡るための石橋が完成したのを記念に建立された石橋供養塔である」(※4)

※4 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂(越谷市立図書館蔵)「名号付き石橋供養塔」55頁

備考

風化や劣化などによって、刻まれている文字(銘)が目視で確認しづらい石塔が多かった。判読できなかった銘については、加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂(越谷市立図書館蔵)「会野川筋跡路傍」54頁-55頁に従った。

場所

石塔群|越谷市平方

石塔群の住所は、埼玉県越谷市平方343-1( 地図 )。郵便番号は 343-0002。場所は、天草(あまくさ)病院の北西角地。旧日光街道「備後」交差点から西へ折れ、150メートルほど進んだ右手。

参考文献

本記事を作成するにあたっては、関係書籍や調査報告書も参考にした。参考にした文献を以下に記す。引用した箇所については記事中に引用箇所を明記した。

参考文献

加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)