逆川の起点に架かる新方橋をわたって、古利根川右岸沿いに平方東京線(埼玉県道102号)を1キロメートルほど上流に行った道沿いに、墓地がある。住所は越谷市向畑(むこうばたけ)。地図では墓守堂とあるが、地元では十一面観音堂と呼ばれている。墓地手前の道が二股に分かれる三角地には、コンクリート造りの二つのお堂と、庚申塔などの石仏や「三十六童子」と刻まれた石塔が建てられている。
墓守堂一帯はかつて寺院だった。
墓守堂(はかもりどう)の創建年代はつまびらかではないが、もともとは梅龍山千蔵院(ばいりゅうさん・せんぞういん)と称された真言宗の寺院であった。現在、敷地内は、瓦屋根トタン葺きの集会所と墓地になっている。廃寺となり、小さなお堂と墓地だけが残ったので「墓守堂」(墓を守るお堂)と名付けられたのだろう。
地元では、この墓所は十一面観音堂ど呼ばれている。『新編武蔵風土記稿』向畑村の項に「千蔵院 新義真言宗、梅龍山と号す、本尊不動、観音堂」とある。かつてこの一帯は、千蔵院が占有していた土地で、境内には十一面観音を安置した観音堂があったと思われる。
三角地の堂舎と石仏
墓地手前の路傍は三角地になっている。一画にある不動三尊像を安置した不動堂と、不動明王の従者である「三十六童子」と刻まれた文字塔が、不動明王を本尊に祀った寺院だった当時の名残を伝えている。三角地には庚申塔や普門品供養塔などの石仏も並んでいる。
「青面金剛」文字庚申塔
三角地の頂点(道が二股に分かれる地点)にあるのは、江戸後期・文化2年(1805)の「青面金剛」文字庚申塔。石塔型式は角柱型。正面の上部に陽刻された「日月」、中央に「青面金剛」(しょうめんこんごう)の文字、台石に「三猿」が陽刻されている。左側面の文字は「文化二乙丑年」「武州崎玉郡新方領 向畑村」「世ハ人」。6人の名前が見られる。右側面には「九月吉祥日」とあり、7人の名前が刻まれている。
普門品読誦供養塔
「青面金剛」文字庚申塔の横に立っているのは自然石による普門品読誦供養塔(ふもんぼん どくじゅ くようとう)。江戸末期・文久元年(1823)造立。普門品とは、法華経の第八巻第二五品「観世音菩薩普門品」の別称。観音経とも呼ばれる。観音経(普門品)を一定回数読誦(どくじゅ)した記念に建てたもの。主銘は「梵字・サ」(※1)「普門品讀誦供養塔」。脇銘は「向畑講中謹樹」(※2)「文久元年辛酉十一月吉旦」
※1 梵字「サ」は聖観音(観世音菩薩)を示す。
※2 「謹樹」は、「つつしんでたつ」と読む。
「三十六童子」文字塔
普門品読誦供養塔の横に、同じく自然石の「三十六童子」文字塔がある。造立は明治11年(1878)。三十六童子(さんじゅうろくどうじ)とは不動明王の使者。文字塔の隣には不動明王三尊像が祀られている不動堂がある。石塔の正面には「三十六童子」と刻まれ、横に印が二つ縦に陰刻されている。裏面には「明治十一季」「寅十二月樹之」(※3)とある。
※3 「樹之」は「これをたつ」と読む。
不動堂
「三十六童子」文字塔の隣にあるのは瓦屋根コンクリート造りの不動堂。越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「向畑の集落」の項に、「最近コンクリートに改造された不動堂」とあるので、以前は木のお堂だったらしい。
不動三尊像
お堂には不動三尊像が安置されている。上段に不動明王座像、下段に脇侍の二童子、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)。石像の手前には不動明王が描かれた色紙も置かれていた。
成田山新勝寺の本尊の不動三尊像の二童子を模したものである。矜羯羅(こんがら)は、やさしい顔付きで立っている。蓮の花が開いた花と、閉じたままのつぼみが付いた長い蓮の柄を、左手は上げ、右手は下げて、両方の手で持つ姿である。一方、制吒迦(せいたか)は、怖い顔付きをしている。左脚を下に下げる半跏趺座(はんかふざ)で、左手は胸のあたりの衣をつかみ、右手は下げて棒を持つ姿である。
外からは確認できないが、『新方地区の石仏』加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)に載っているこの不動三尊像の解説を読むと、造立は江戸末期・慶応2年(1866)。左側面に「慶応二丙寅 八月吉日」の銘文があり、両側面には「世ハ人」(世話人)36人の名前が刻まれていることが分かる。
堂舎
三角地にはもうひとつ堂舎がある。不動堂と同じく瓦屋根コンクリート造り。この堂舎も以前は木のお堂だったと思われる。
仏の色紙と般若心経
お堂の中に、本尊らしいものは見当たらないが、「不動明王」「雲中供養菩薩」「阿弥陀如来」「釈迦如来」「観世音菩薩」などが描かれた色紙が立てられていて、手前に「般若心経」全文が書かれた色紙が置かれていた。
三基の庚申塔
二つのお堂に挟まれるように三基の庚申塔が並んでいる。
文字庚申塔
右端は、江戸後期・文化3年(1806)造立文字庚申塔。石塔型式は角柱型。正面の上部に「日月」が陽刻、中央に「庚申塔」の文字が陰刻、その下に「三猿」が陽刻されている。左側面に「文化三丙寅十一月吉祥日」、右側面に「武州崎玉郡新方領向畑」とある。台座の正面に「講中」「世ハ人」(世話人)と刻まれ、11人の名前がみえる。
青面金剛像庚申塔
中央は、青面金剛像庚申塔。江戸中期・元文3年(1738)造立。石塔型式は駒型。正面に、日月・一面六臂の青面金剛像・二鶏・邪鬼・三猿が浮き彫りされている。左側面には「奉造立庚申待」「施主向畑村」、右側面には「元文三午六月吉日」、施主7人の名前がみえる。
板碑型三猿庚申塔
左端は、板碑型の三猿庚申塔。江戸前期・延宝元年(1673)。主銘は「奉建庚申供養」と刻まれ、その下に三猿が浮き彫りされている。脇銘は「延宝元年」「癸丑十月廿四日」「施主 敬白」「同行」「向畠村」「拾九人」とある。三猿だけが浮き彫りされている庚申塔は越谷市内では珍しい。越谷市内の三猿庚申塔は、江戸前期・寛文4年(1664)から江戸中期・延享4年(1747)の82年間に14基ほど見られる。
墓守堂(十一面観音堂)
三角地の斜め前にある墓守堂(十一面観音堂)については別記事にまとめてある。普門品供養塔や「演聲信士」と刻まれた珍しい戒名の墓石、夫婦で生前供養を行なったと思われる逆修(ぎゃくしゅ)供養塔などが見られる。
越谷市の北東、古利根川右岸に沿って下流域に細長く広がる向畑(むこうばたけ)。堂面橋と新方橋の中ほどの道沿いに、十一面観音堂と呼ばれている墓地がある。江戸時代、この一帯は千蔵院と称された真言宗の寺院であった。墓地の一画には、六地蔵や普門品供養塔のほか「一音演聲信士」と刻まれた珍しい戒名の墓石がある。
交通案内
住所は埼玉県越谷市向畑684南( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし むこうばたけ」。郵便番号は 343-0007 。Yahoo!やゼンリンの地図では「墓守堂」と示されているが、Googleマップでは表示されない。公共交通機関を使った場合、北越谷駅東口から野田市駅行きの茨急バスに乗って新方橋(にいがたばし)バス停で下車。古利根川右岸沿いの道を上流に向って歩くと、12分ほどで着く。三角地は古利根川右岸を通る平方東京線沿いにある。新方橋と堂面橋のほぼ中間地点。新方橋から約1キロメートル、堂面橋からは約800メートル。道路は一車線で狭いので路上駐車はできない。墓地の敷地内(集会所の横)に車2台ほど駐められるスペースがある。
謝辞
本記事をまとめるにあたって、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。