買い物兼トイレ休憩|セブンイレブン蒲生西町一丁目店
14時20分。セブンイレブン蒲生西町一丁目店に到着(越谷市蒲生西町1-4-24)。場所は清蔵院の西側。足立越谷線と蒲生茶屋通りが交差する「蒲生本町」信号横。ここで10分間の買い物を兼ねてトイレ休憩。
昔ここは染物工場だった
案内役の加藤氏と同行の渋谷氏から、昔、この場所(セブンイレブン蒲生西町一丁目店)は染物工場だったという解説があった。当時の写真も見せてくれた。
かつて蒲生地区には三つの染物工場がありました。綾瀬川の紺又(こんまた)、出羽堀の紺勘(こんかん)、そしてこの場所にあったのが、北の紺屋(きたのこんや)です。昭和30年代ごろまでは行なわれていましたが、工業化が進む時代の流れには勝てずに廃業しました。
渋谷氏によると「染物工場には反物を洗うプールが二つあって、子どものころは夏には泳いだ」という話である。昭和も遠くなりにけり…か。
久伊豆神社|蒲生一丁目
セブンイレブン蒲生西町一丁目店をあとに「蒲生本町」交差点を渡って足立越谷線を右へ。50メートルほど歩くと道路沿いに小さな神社がある。住所は越谷市蒲生1-1-7。石鳥居に掲げられた神額には「久伊豆神社」と彫られている。北側は清蔵院。江戸時代、この久伊豆神社は清蔵院が管理していた。
青面金剛文字庚申塔
境内に庚申塔が一基、ぽつんと置かれている。江戸後期・文政7年(1824)造立の文字庚申塔で、石塔型式は兜巾型。正面の主銘は青面金剛。上部に日月が陽刻されている。左側面には「文政七甲申年八月吉日」、右側面には「願主 浅見新藏 井田仁右ヱ門」とある。台石の正面に三猿が浮き彫りされている。
移動|蒲生茶屋通りへ
久伊豆神社を出て、脇道から旧日光街道の蒲生茶屋通りに出る。道路を挟んだ正面に清蔵院の参道と松の大木が見える。
蒲生茶屋通り
蒲生の茶屋通りは、旧日光街道の草加宿と越ヶ谷宿の間に置かれた旅人や人足が休憩する立場(たてば)のような働きをしていた。蒲生には上茶屋(かみちゃや)と下茶屋(しもちゃや)と呼ばれた。また蒲生大橋を渡った現在の草加側にも茶屋通りが続き、「出茶屋」(でじゃや)と呼ばれた。徳川家康を祀る日光東照宮に近いほうが上茶屋(現在の蒲生一丁目)、江戸に近いほうが下茶屋(現在の蒲生愛宕町)。
江戸時代、茶屋通りは、食料・衣服・荒物雑貨をはじめさまざまな店が並ぶ蒲生きっての商店街でした。日光街道の西側に茶屋や商店が並んでいたので「蒲生片町(がもうかたまち)焼米茶屋(やきごめぢゃや)」と呼ばれ、茶店には名物の焼き米(※5)も売られていました。茶屋市、別名・牛蒡市(ごぼういち)と呼ばれる市も立ち、にぎわいをみせていました。
※5 焼き米とは、米を籾(もみ)のまま炒って、それをついて殻を取り除いたもの。香ばしくご飯の代わりや携行食として旅人たちに重宝された。
高札場跡
江戸時代、清蔵院の冠木門(かぶきもん)の前には高札場があった。上の写真の駐車場になっているところが高札場跡。
そのまま蒲生茶屋通りを南下。
ぎょうだいさま
蒲生茶屋通りに面して、高さ2メートル50センチほどの木の祠がある。うしろの建物は、歌舞伎などの小道具を扱っている藤浪小道具の第三号倉庫。住所は越谷市蒲生1-2-10。この祠の中には「ぎょうだいさま」と呼ばれている石塔が納められている。
江戸中期・宝暦7年(1757)に行なわれた日光街道大修理のさいに、道に砂利(じゃり)が敷かれた記念碑で、道を歩く人々の道中安全を願って建てられた。以前は祠に入っていなかったので直接拝むことができた。
旅の神様
ぎょうだい様は、交通の神様、とくに足の神様として慕われ、旅のさいに足を痛めないように、道中、わらじを奉納する人々が絶えなかったという。今も祠の前には奉納されたわらじがつるされている。
ぎょうだいさまの正体は?
ぎょうだいさまは「砂利道供養」と刻まれた石塔の上に載っている。この像は、行者様(ぎょうじゃさま)とも、ぎょうだいさまとも、おかまさまとも呼ばれている。姿は、鳥のような河童(かっぱ)のようななんとも不思議な形をしているが、「烏天狗のくちばしのようなものをもつ護法善神(ごほうぜんじん)」らしい。護法善神とは守り神のこと。
ぎょうだい様については別記事で詳しく解説している。
関連記事
越谷市の蒲生茶屋通り(旧日光街道)沿いにある通称・ぎょうだい様。江戸中期・宝暦7年(1757)の砂利道供養塔の上に載っている異様な姿をした石像で、地元では鷲の神様と言われていたが、ぎょうだい様の正体は烏天狗だった。
神明社跡地|おしめ様
ぎょうだい様をあとに蒲生茶屋通りを40メートルほど進んで丁字路を右折。住宅地の一画に入る(越谷市蒲生一丁目)。この住宅地は、かつて蒲生村東組の名主をつとめた大熊仁兵衛(にへえ)家の屋敷だったところで、敷地内には、上茶屋の鎮守・神明社があった。地元では「おしめさま」(お神明様)と呼ばれた。上の写真で案内役の加藤氏が立っているところ(黄色い▲印)がかつての参道。その手前に鳥居があった。
末社として牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王様(てんのうさま)があり、毎年、7月15日には天王祭が開かれた。太鼓やお囃子で神楽が奉納され、茶屋通りには夜店も出て、おおいににぎわったという。
当時の写真
同行の渋谷氏が、神明社があった当時の写真を見せてくれた。石鳥居の横には桜の木と集会所が映っている。ちょうど我々が立っているあたりが鳥居の前になる。貴重な写真を見せてくれた渋谷氏に感謝。
移動|茶屋通り角地
神明社跡地から茶屋通りに戻って右へ。丁字路の角地に鞘堂(さやどう)があり、二基の石塔が見える(上の写真の黄色い▲印)。うしろのクリーム色の建物は神谷燃料(越谷市蒲生1-5-1)
不動道の道しるべ|奉行地道入口
鞘堂には道標石塔と庚申塔が置かれている。向かって左側の石塔は、不動道(ふどうみち)の道しるべ。不動道とは大相模不動尊(大聖寺)に通じる道のこと。越谷市内には不動道と呼ばれる古道がいくつかある。ちょうどこの丁字路(角地)は、日光街道(蒲生茶屋通り)と不動道の分岐点にあたり、この道しるべが設置された。この地点から大聖寺に通じる不動道のうち、ここから柿木町蒲生線までは、地元では奉行地道(ぶぎょうちみち)と呼ばれている。この場所は奉行地道の入口でもある。
不動像付き道標石塔
不動像付き道標石塔は江戸中期・享保13年(1728)造立。石塔型式は角柱型。石塔の上に不動明王像が置かれている。石塔の正面には「是より大さかミ道」(これより大相模道)と刻まれている。左側面」には「時于享保十三戌申九月廿八日」、右側面には「施主 江戸新乗物町講中」のほか、16人の名前や戒名が刻まれている。
青面金剛像庚申塔
向かって右側の青面金剛像庚申塔は、江戸中期・正徳3年(1713)の造立。石塔型式は笠付き角型。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏が陽刻されている。脇銘は「奉建立庚申待講結衆為二世安楽」「正徳三癸巳十一月□日」とある。左側面と右側面には、年左ヱ門・又七・伝兵衛・半三郎など26人の名前が刻まれている。
移動|蒲生愛宕町
道しるべをあとに蒲生茶屋通りを南下。200メートルほど歩くと、前方右手に「中尾医院」の看板が見える(上の写真の黄色い▲印)
中尾宗庵家|中野医院
看板手前の道を右に入ったところが中野医院。住所は越谷市蒲生愛宕町1-13。中尾家は、江戸時代から代々医者を務めていた。初代は中尾宗庵(なかおそうあん)。医者として地元に貢献しただけではなく簣山塾(きざんじゅく)と呼ばれた寺子屋も経営。弟子は500人を超えたという。
蒲生橋
蒲生茶屋通りをさらに進むこと100メートル。前方にY字路が見える。Y字路の角地に白いガードレールがあるが、その手前が蒲生橋。橋といっても今は道路の一部になっているので一見すると橋には見えない。
蒲生橋周辺の景色
上の写真は蒲生橋手前からの景色。橋の右手に石の欄干(らんかん)が見える。直進している道は旧日光街道。左側を流れているのは旧・出羽堀(蒲生愛宕川)。右手は綾瀬川。右前方の綾瀬川に架かっているのは現在の蒲生大橋。
蒲生橋は出羽橋と呼ばれた
綾瀬川の左岸沿いを流れてきた出羽堀はこの橋の下をくぐって日光街道の左側に抜けていった。出羽堀に架かる橋なので、蒲生橋は、かつては出羽橋と呼ばれた。上の写真の土手道の横下(欄干の先)は出羽堀跡。
この地点で、西から綾瀬川沿いに流れてくる出羽堀と、四か村用水が合流します。そして出羽堀は綾瀬川に沿って南流し、草加に入る手前、愛宕橋の下(蒲生の一里塚の前方付近)で、綾瀬川に注がれます。
親柱|がもうばし
「がもうばし」と刻まれた石板がはめられている親柱(おやばしら)。土手道の横下(上の写真の黄色い▼印)が、かつての出羽堀跡。