越谷市船渡の船渡新田集会所にある釈迦如来座像や首なし地蔵などを調べた。調査した石仏や石塔を写真とともにお伝えする。場所は、新方川に架かる間久里新田橋から大杉公園通りを200メートルほど直進した左手にある。

船渡新田集会所

船渡新田集会所|越谷市船渡

調査したのは 2023年7月22日。船渡新田集会所の西側軒下と、ブロック塀沿い(防災倉庫の裏手)に、石仏・台石・墓標などが9基、並べられている。

  1. 丸彫り迦如来座像
  2. 台石|六十六部
  3. 首なし地蔵
  4. 普門品供養塔
  5. 青面金剛像庚申塔
  6. 墓標

これらの石仏はもともとは別の場所にあった。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると「もとは(この場所から)南東にあって、その場所にはお堂もあった」(※1)という。

※1 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「(7)船渡新田集会所」43頁

それでは石仏と石塔を順番に見ていこう。

集会所|西側軒下

船渡新田集会所の石仏・石塔

集会所西側の軒下に、釈迦如来座像、座像の前に、丸型の台石が置かれている。

釈迦如来座像

丸彫りの釈迦如来座像|船渡新田集会所

丸彫りの釈迦如来座像。年代は不詳。蓮台(れんだい)の上で座禅を組んでいる。かなり大きな座像だ。

禅定印

禅定印を結ぶ釈迦如来座像

この釈迦如来座像は、禅定印(※2)を結んでいる。

※2 禅定印(ぜんじょういん)とは、法界定印(ほっかいじょういん)とも呼ばれ、両手の手のひらを上にして、足の上で上下に重ね、親指の先を向きあわせる印相(いんぞう)。釈迦が悟りを開いたときのポーズともいわれている。

台石|六十六部供養

台石|六十六部供養

釈迦如来座像の前に丸型の台石が置かれている。この台石は釈迦如来座像とは関係ない。正面に「奉納大乗妙典」。側面に「六十六部供養成就攸」「□禄二己巳年九月」などの文字が確認できる。「攸」(ゆう)は「所」(処)と同義。
 
これは、江戸中期・元禄2年(1689)に建立された六十六部供養塔(※3)の台石だが、もともとは、この台石の上に石塔が載っていたと思われる。

※3 六十六部供養塔(ろくじゅうろくぶ くようとう)とは、全国66か所の寺院(霊場)を巡礼して、書写した法華経(大乗妙典)を一部ずつ奉納した記念に建てられた供養塔のこと。六十六部廻国塔とも呼ばれる。

ブロック塀沿い

釈迦如来座像と石塔群

ブロック塀沿いには、7基の石仏・石塔が、釈迦如来座像に見守られるように 並んでいる。

首なし地蔵

首なし地蔵

三体の首なし地蔵。年代は不詳。中央と左端の地蔵は台石に載っている。
 
左端は、左手に宝珠、右手で錫杖を持った地蔵。中央は両手で柄香炉を持った地蔵。右端は、左手で蓮華(れんげ)を持った地蔵。
 
三体の首なし地蔵と、明治初年の廃仏毀釈(※4)との関係は分からない。

※4 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、「仏教を廃し釈迦(しゃか)の教えを棄却する」の意。明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の排斥運動。明治元年(1868)神仏分離令発布とともに、仏堂・仏像・仏具・経巻などに対する破壊が各地で行なわれた。(出典)JapanKnowledge(https://japanknowledge.com)「廃仏毀釈」デジタル大辞泉 (2023年7月22日閲覧).

普門品供養塔

普門品供養塔

普門品供養塔(※5)。江戸後期・天明5年(1785)造立。石塔型式は兜巾型(ときんがた)
 
正面の最頂部に、聖観音(聖観世音菩薩)を表わす梵字・サ。主銘は「奉供養普門品一萬巻」。脇銘は「天明五巳年」「三月日」。右側面には、寄進者五人の名前が刻まれている。 

※5 普門品供養塔(ふもんぼん くようとう)とは、法華経の観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん=通称・観音経)を一定回数読誦した記念に建てた供養塔。この石塔は、普門品を一万巻読誦した記念に建てられた。

僧侶の墓標

僧侶の墓標

普門品供養塔の隣にある二基の石塔は僧侶の墓標。

板碑型

僧侶の墓標|板碑型

向かって右側。小さいほうは板碑型の墓標。最頂部に梵字・サ。中央に二名の戒名が刻まれている。「義光法師」「元文五庚申天三月十二日」。「長誉法師」「元文四壬未(※6)天二月十四日」。「法師」は僧侶の戒名。

※6 この墓標には「元文四壬未」と刻まれているが、元文4年(1739)の干支は「己未」(つちのとひつじ)。また、六十干支(ろくじっかんし)には「壬未」(みずのえひじ)というのは存在しない。石工が間違って「己未」を「壬未」と刻んだと思われる。

箱型

僧侶の墓標|箱型

向かって左側、大きいほうは箱型の墓標。最頂部に梵字・サ。中央に「當(当)寺第四世法師堯□不生位」、側面に「享保八」「二月」などの文字が確認できる。
 
不生位(ふしょうい)は真言宗の僧侶の位号。「當(当)寺第四世法師」とあるので、かつてこの地(旧・船渡村新田)にあった真言宗寺院の第四世をつとめた住職の墓標と思われる。
 
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「船渡村」の項(※7)に、真言宗の寺院として「福王寺」と「南泉院」が記されている。もしかしたら、この墓標は、福王寺か南泉院の第四世住職のものかもしれない。福王寺と南泉院は今はない。

※8 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「船渡村」183頁

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔。江戸後期・天明5年(1785)造立。石塔型式は光背型。最頂部に「日月」、中央に「六手合掌型の青面金剛像」、青面金剛の足の下に「邪鬼」、足の両脇に「二猿」、最下部に「三猿」が陽刻されている。

脇銘

脇銘|青面金剛像庚申塔

左側面には「奉造立供養庚申尊像所願成辨結衆」。「成辨(成弁)」(じょうべん)とは、願いを成就すること。「結衆」(けっしゅ)は「講」と同義。
 
右側面には、「正徳四甲午天八月初上旬」のほか、寄進者五人の名前が刻まれている。

追記

船渡新田集会所の石仏・石塔

船渡新田集会所にある二基の墓標のうち一基は、かつてこの地にあった福王寺の住職の墓標かもれしないと上述したが、『新編武蔵風土記稿』「船渡村」の項に、「山王社 福王寺の持」(※)とあって、福王寺が、山王社と称された神社を管理していたことが記されている。
 
もしかしたら、船渡新田集会所にある石仏や石塔は、福王寺または山王社にあったものかもしれない。

※9 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「船渡村」183頁

船渡新田集会所の場所

船渡新田集会所|越谷市船渡

上の写真の屋根にソーラーパネルがあるのが船渡新田集会所。住所は埼玉県越谷市船渡271-2( 地図 )。郵便番号は 343-0003。
 
場所は、新方川に架かる間久里新田橋から大杉公園通りを200メートルほど直進した左手。畑地の北側。道路からはちょっと見にくい場所にある。

参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)