2024年5月30日。越谷市袋山の子育て地蔵と北向き地蔵と呼ばれる二基の石仏を調べた。子育て地蔵は、袋山郵便局の北西70メートル、北向き地蔵は、袋山観音堂(袋山第二集会所)の西側、持福院墓地入口にある。

子育て地蔵

子育て地蔵|越谷市袋山

まずは子育て地蔵から調べた。
 
場所は、袋山郵便局の北西70メートル。須賀川通りから観音堂に向かう道の右脇(個人宅のブロック塀沿い)にある。

像容・脇銘

子育て地蔵

石塔型式は隅丸角型。造立は江戸後期・嘉永5年(1852)。正面中央に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。左手に宝珠(ほうじゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持っている。
 
脇銘は「嘉永五壬子年霜月吉日建立」「法会無縁為供養」
 
この石仏は、地元では「子育て地蔵」と呼ばれている。

安産祈願のお地蔵様

安産祈願のお地蔵様

越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、この地蔵尊について、次のように述べている。

この地蔵尊は、地元では、安産祈願として、「無事に生まれますように」「お産が軽くなるように」との願いを込めて信仰されてきた。
 
出産して二十一日目(女の子は三十三日目にする場合もある)に地元の袋山久伊豆神社に宮参りをする。そのあと、薬師堂に立ち寄り、すぐそばにあるこの地蔵尊にも立ち寄る人がいる。
 
この地蔵尊を管理しているE家では、毎年、一月二十三日と八月二十三日にはお参りを欠かせないという。

※1 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)102頁

言い伝え

地蔵尊

昭和55年(1980)に発行された『袋山の歩み(上)』(※2)には、「子育て地蔵」と題し、次のような言い伝えが書かれている。以下、引用・抜粋。

この地蔵様は始めはEさんの住宅のすぐ隣にあったようです。
 
ところがEさんのお家で昔、子どもが三人続いて亡くなった時代があったといわれます。そこでいろいろ原因を調べたところ、地蔵様の場所がEさんの住宅に対して方角が悪かったようです。
 
そのために今の場所に何年か前に移されたと伝えられています。
 
この地蔵さまは昔から、からだの弱い子どもは、この地蔵様にお参りすれば丈夫なからだになるとの言い伝えがありました。そのために袋山以外からも参詣に見えたようです。
 
一説には、安産の地蔵様とも伝えられています。

※2 中島正一『袋山の歩み(上)』石塚印刷(昭和55年11月1日発行・非売品)「子育て地蔵」55-56頁

 
続いて、北向き地蔵のある観音堂へ向かった。

北向き地蔵

観音堂|越谷市袋山

北向き地蔵の場所は、子育て地蔵前の道を北へ200メートルほど進んだT字路の先(越谷市袋山382)。袋山観音堂(袋山第二集会所)の西側、持福院墓地入口脇にある。

像容

地蔵尊座像を戴いた石橋供養塔

石塔型式は上部隅丸角型。造立は江戸中期・安永10年(1781)。石塔の上部に、合掌姿の地蔵菩薩座像が浮き彫りされている。
 
下部の主銘は「石橋供養塔」。右側面の脇銘は「これより左しんめいみち」。この石塔は、道しるべを兼ねた石橋供養塔(※3)だが、地元では、「北向き地蔵」と呼ばれてきた。
 
もともとは別の場所にあったが、今も北を向いている。

※3 石橋を造ったときに、永久に損壊することなく、村人や旅人の安全を願って建てられた石塔。

上部

合掌地蔵

石塔の上部正面の主尊は、合掌した地蔵菩薩座像。脇銘は「妙泉信女」「香雲信女」

下部
正面

主銘

石塔下部・正面の主銘は「石橋」「供羪塔」(供養塔)。脇銘は「安永十辛丑年」「正月吉日」

右側面

道しるべ

右側面の主銘は「これより左しんめいみち」(これより左 神明道)と刻まれ、道しるべになっている。
 
「神明道」とは「神明下村に至る道」のこと。かつてこの石塔があった場所から左(南)に行くと、神明下村(現在の神明町)に至った。
 
脇銘は、「世話人」「荻嶋村 六左衛門」「砂原村 庄蔵」「西新井 喜四郎」の文字が、確認できる。

左側面

脇銘

左側面には「願主」「関根太良左衛門」「山嵜佐兵衛」「浄心房」「禅了房」「上当村□□」「専迪房」とある。
 
浄心房・禅了房・専迪房の「房」は、房号(ぼうごう)で、僧侶に付けられる尊称。

北向き地蔵|元の場所

北向き地蔵|道標付き石橋供養塔

この北向き地蔵(道標付き石橋供養塔)は、もともとは、袋山の「次郎兵衛山」(別名:地蔵うら)と呼ばれた小高い山の東端に、北を向いて立っていた。
 
現在の場所(観音堂)から北北東200メートルあたりの角地。

次郎兵衛山

※上記地図はGoogleマップを加工して作成

現在の場所に移された経緯について、昭和55年(1980)に発行された『袋山のあゆみ(上)』(※4)に、次のように書かれている。以下、引用・抜粋。

次郎兵衛山(じろべえやま)は、いまから約90年くらい前(明治20年代ごろ)までは、スギやケヤキなどがたくさんあって、とても景色のよいところだったと伝えられています。
 
また、へびなどもとてもたくさん見かけられたといわれます。
 
いまの東武鉄道は、明治32年(1899)にできたわけですが、その開通工事のときに、この山(次郎兵衛山)を削り取ってしまったそうです。
 
次郎兵衛山の道の曲がり角に北向き地蔵がありましたが、工事のじゃまになり、今の場所(袋山第二集会所となりの墓地入口)に移されたと、伝えられています。

※2 中島正一『袋山の歩み(上)』石塚印刷(昭和55年11月1日発行・非売品)「次郎兵衛山」(別名:地蔵うら)17-18頁

次郎兵衛山跡地

上の写真は、かつて(125年前まで)次郎兵衛山(別名:地蔵うら)があったあたり。現在、当時のおもかげは、かけらもない。北向き地蔵は、写真下の角地に立っていた。

参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9.10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)
中島正一『袋山の歩み(上)』石塚印刷(昭和55年11月1日発行・非売品)袋山・大熊氏所蔵
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)