越谷市袋山(ふくろやま)は、江戸時代から俳諧の盛んな地であった。門弟三千人といわれた江戸中期の俳人・大島蓼太(おおしまりょうた)と門人たちとの交流も記録に残っている。袋山の鎮守・久伊豆神社の境内には、明治12年の遙拝歌碑(ようはいかひ)と、「峯いくつ越てのぼるや冨士の峯」などの句が刻まれた、江戸後期・天保11年(1840)の袋山俳句連による句碑が建てられている。
遙拝歌碑
神殿に向かって左手に、自然石による明治12年(1879)の雷電社遙拝碑(らいでんしゃようはいひ)が建てられている。雷電社は、かつて袋山にあった神社で、『新編武蔵風土記稿』袋山村の項に「雷電社 村の鎮守とす」とある。江戸時代は袋山の鎮守であったが、明治40年(1907)に袋山久伊豆神社に合祀された。遙拝碑の表面には連歌(※1)が刻まれ、裏面には俳句と短歌が刻まれている。
※1 連歌(れんが)とは、和歌の上句と下句に相当する五・七・五の長句と七・七の短句とを何人かの人たちが交互に詠みながら、ひとつの詩になるように連ねていく詩歌の形態。句と句の付け方や場面の展開のおもしろさを味わった。
表面|連歌
遙拝碑の表面には、「四季八景」と題した連歌が自然石に刻まれている。台石に「五穀成就」とあるが、遙拝碑のための台石なのかどうかは不明。建立(明治12年)から年月が建っているので、随所に風化が見られ、連歌は解読しずらい箇所がかなりある。碑文および連歌については『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)を参照した。以下引用。
雲間 雷電神社
祠官少講義田中源武雄敬書
四季八景
神前 神前に御串さゝくる尊ふし
観光 甕もおさまる 天津祝詞を
沼上 きた柱立せ給ふハ筑波なる
波山 伊弉のよきはるのうら々々
佐野山 佐野山ハ春を名残と思ひしに
炭焼 夏氣も絶えすけむる炭竃
稲裏 稲うらにほたる狩する闇の夜も
螢狩 さゝ浪よせていたるいなつま
黒髪山 黒かみをむすび上げたる曠姿
三龍 荘厳の龍にうらミきりふり
渡瀬 わたら瀬の堤の松ハ年ふりて
落雁 月もろともに落る雁なね
赤城山 聳へたる空より晴て赤城なる
晴嵐 山のおろしのひく晩鐘
冨士山 日の脚ハミちかくなりし頃なるに
遠望 不士の裾野の永きものかは
両儀庵 東條敬白
遙拝碑引用元:『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室
裏面|俳句と短歌
裏面には 8人の俳人による俳句と短歌が刻まれている。碑文から、この遙拝碑は、袋山久伊豆神社の氏子(うじこ)一同が建立したことがわかる。裏面も表面と同様、風化が進んでいて、俳句と短歌を読み取るのはかなり困難。碑文および短歌については『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)を参照した。以下引用。
夕立や いかりおろしてかがり船 葉勢
朝凪や 雲間々々の ほとゝぎす 芳月
しと雨や 空は祈念の 雲の色 桃林
稲妻や 鍬をかたげて野の小道 關賀
しと雨や これが千旦の誓ひなり 遊水
おもふほど 届くちかひや稲の花 把竹
月影をうごかす水の遊かな 賀栄
雨はつる民の袖だにしほりつゝ
誓ひありなむ雷の神 蝶二
明治十二年己卯仲夏
武蔵國埼玉郡袋山村
氏子中引用元:『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室
大島蓼太と袋山俳句連
袋山は越谷の中でも俳句が盛んな土地であったが、江戸中期を代表する俳人・大島蓼太(おおしまりょうた)とその門人ちの普及活動によるところが大きい。大島蓼太と門人たちが、しばしば袋山を訪れて、俳句連の人たちと交流したことも記録に残っている。
江戸中期の俳人(1718-1787)。松尾芭蕉ゆかりの地を吟行(ぎんこう)し、芭蕉への復帰を唱えた。門人の数は三千人ともいわれ、一大勢力を築く。編著『雪おろし』『蓼太句集』のほか、『芭蕉句解』など、芭蕉の資料紹介や注釈にも功績を残した。
『越谷市史(一)』通史上(昭和50年3月30日発行)に「大島蓼太とその門人が越谷を訪れたのは、江戸中期・明和年間(1764-1772)ごろと思われる。恩間村の渡辺荒陽の『鬢鏡』なる俳歴書に『江戸から蓼太やその門人が年に三度、十日から二十日滞留して、恩間や袋山の人々に俳句を指導し、越谷からも年に三度は江戸に出向き、句会へ出席した』ことが記されている」とある。
袋山俳句連の句碑
袋山久伊豆神社の本堂裏手に、五社が合祀されている木祠(もくし)があるが、その隣に、自然石による袋山俳句連の句碑が建っている。建立されたのは、江戸後期・天保12年(1841)。この句碑も袋山が俳句の盛んな地であったことを物語っている。
表面
表面には、螢河・宗銘・遊雪・脩栄、四人の俳句が刻まれている。読みにくい箇所もあるので、『越谷市史(一)』通史上(昭和50年3月30日発行)大島蓼太と袋山俳句連の項を参照した。以下引用。
堤草の ゆるぎもやらず 雲の峯 螢河
ゆふ風の 戦ぎ見たるや 合歓花 宗銘
さら々々と 雨も降し 若葉山 遊雪
峯いくつ 越てのぼるや 冨士の峯 脩栄老人引用元:『越谷市史(一)』通史上(大島蓼太と袋山俳句連)
宗銘と脩栄
宗銘(そうめい)と脩栄(しゅうえい)は、二人とも袋山村の人である。『越谷市史(一)』(通史上)大島蓼太と袋山俳句連の項に「いずれも葛飾蕉門(※2)の錦江に学び、判者(※3)の域まで達した人である。『葛飾文脈系図』(嘉永年中)に『○宗銘 弘化四年丁未ノ春老俳。武州袋山村。○脩栄 武州新方領袋山村に住す。白扇、玄竜と同じく判者にすすむ。某年死す。」とある。
※2 葛飾蕉門(かつしかしょうもん)とは、俳諧の一派で、祖とされる山口素堂(やまぐちそどう)が葛飾に住んでいたこと、素堂は松尾芭蕉の門流であることからこの名がある。なかでも錦江(きんこう)は、多くの研究書を残している。
※3 判者(はんじゃ)とは、俳諧の優劣を競う句合(くあわせ)の席で、句の勝ち負けを決める人のこと。実力を認められた俳人が判者を務めた。
上記『葛飾文脈系図』文中「白扇、玄竜と同じく判者にすすむ。」の白扇(はくせん)は、新方領西新井村(現在の越谷市西新井)の名主で、西新井・西教院の境内に「たいらなり初曙の昇汐」の句が刻まれた白扇句碑がある。
裏面
裏面には「天保十一子歳 仲秋吉日」「武蔵國 袋山郡 願主 細沼廉陰」と刻まれている。願主・細沼廉陰の家系(細沼家)は、先祖が袋山村の開発者であったと伝えられている。『埼玉の神社(北足立 児玉 南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)に、「細沼家の家伝によれば、同家は、楠木正成(くすのきまさしげ)の一族で、甲州(山梨県)に住んでいたが、戦国時代に落ち延びて、武州見沼郷にとどまり、その後、袋山村の開拓を行なった。」とある。
参拝情報
住所は埼玉県越谷市袋山341( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし ふくろやま」。郵便番号は 343-0032 。公共交通機関でのアクセスは、東武伊勢崎線・大袋駅西口から徒歩約10分。車で行く場合は、拝殿橫手にある袋山連合自治会館(越谷市袋山341-1)前に駐車スペースがある。