家康と私たちの越谷

日光街道に越谷を通してくれた

続いては日光街道のお話をさせていただきます。
 
天下の家康も、五街道のうちの日光街道(奥州街道)は、どこを通すか、思い悩んだのではないでしょうか。。まさに「どうする家康!」でございます。
 
常識的に考えれば、現在の日光御成街道(にっこうおなりかいどう)にしようとしたと思います。今の北千住~草加~越谷ルートでは、利根川と荒川を瀬替(せが)えして東と西にもっていっても、水害の起こりやすい土地を通すことになります。
 
それに比べると、江戸・本郷~岩槻~川口~鳩ヶ谷~大門~岩槻~幸手・上高野という大宮台地の上を通るルートのほうが安全です。安全を重視する家康が、なぜ、あえて「越谷」ルートを日光街道に選んだのでしょうか。

宮川進氏

そこには家康の「越谷びいき」があったと思われます。

家康は越谷での鷹狩りが大好きだった

家康が趣味の中でいちばん好きなのは「鷹狩」(たかがり)でした。訓練した鷹を慣らしておいて、鳥などを捕まえさせる狩猟の鷹狩りです。
 
越谷は、川あり、池あり、沼あり。昭和の時代でも、晩秋になると筑波のほうから渡り鳥がやってきて、空がまっくろになるほどだった、という場所です。冬にはお肉屋さんの店頭には鴨がぶら下がっていたほどです。
 
ヒトは好きな分野に没頭できることが最大の喜び。

宮川進氏

家康にとっては、趣味の鷹狩りが存分に楽しめる「越谷」が、いちばん好きだったと思われます。

大聖寺にお礼の寝具を残した

徳川家康公垢付の御夜具

徳川家康公垢付の御夜具(大聖寺所蔵)※禁無断転載

征夷大将軍になる前、武蔵国(むさしのくに)の大名だったときは、まだ、自分の鷹狩り用の宿泊施設をもっていませんでした。越谷に鷹狩りに来た家康は、大聖寺(だいしょうじ)に泊まらせてもらったお礼に、今も伝わる「三つ葉葵の寝具」(※4)を残しています(上の画像参照)

※4 大聖寺に保存されているこの夜具は、「徳川家康公垢付の御夜具」(とくがわいえやすこうあかつきのおやぐ)の名で、越谷市の有形文化財・歴史資料に指定されている。

もちろん越谷だけではなく、武蔵国のあちこちで、寺社に泊まらせてもらっていたのでしょうが、「三つ葉葵」をもらったところが、ほかにありますか?

宮川進氏

埼玉に、そして全国でも、これだけ家康がヒイキにしてくれたところは越谷のほかにはありません。

越谷に御殿までつくった

越ヶ谷御殿跡碑

越ヶ谷御殿跡碑(越谷市御殿町)

宮川進氏

征夷大将軍になった家康は、大好きな趣味に没頭できる「越谷」をヒイキにして、洪水が起こらないような土地をつくり、日光街道に「越ヶ谷宿」を置き、鷹狩りのときの別荘である「越ヶ谷御殿」を置いてくれました。


御殿というのは、家康の場合、鷹狩り用と京都に行く上洛(じょうらく)用のものと、二種類ありました。全国には、お茶屋など小規模なものを含めて、40箇所あった別荘です。
 
越ヶ谷御殿はもちろん鷹狩り用の別荘でした。どいいうものであったかは、残念ながら絵図などの記録は残っておりません。
 
家康は、数ある自身の鷹狩り用の御殿のなかでも、とくに越ヶ谷御殿が気に入っておりまして、たとえば、慶長18年(1613)の11月には七日間にわたって滞在し、19羽の鶴を捕えることができて、ご機嫌だったようです。
 
慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣で勝利したあと、11月には、10日から六日間、滞在しました。そして、その翌年、元和(げんな)2年(1616)に、家康はその生涯を終えました。

越谷にたくさんの朱印状を発給した

林西寺(越谷市平方)

林西寺(越谷市平方)

徳川家康は、天正(てんしょう)18年(1590)に武蔵国(むさしのくに)に領地を与えられて、翌年の11月に朱印状(※5)を有力寺社に出しました。

※5 朱印状(しゅいんじょう)とは、戦国大名や江戸時代の将軍が、花押(かおう)の代わりに朱印を押して発行した公的文書のこと。

宮川進氏

家康から朱印状をもらった越谷市内のお寺は七箇所あります。

  • 大聖寺…60石
  • 林西寺…25石
  • 天嶽寺…15石
  • 浄音寺…10石
  • 照蓮院… 5石
  • 迎摂院… 5石
  • 浄山寺… 3石

浄山寺(じょうざんじ)については、朱印状をいただくさいに、寺号をそれまでの「慈福寺」(じふくじ)から「浄山寺」に変更するように上意(じょうい)があり、寺領300石の朱印状を与えようとしたところ、時の住職が過分であると断ったので、家康が鼻紙に三石と書いて与えたという「鼻紙朱印状」伝説があります。
 
七箇所という数字は、埼玉県内でいちばん多いようです。越谷に次いで川口市が六箇所、旧・岩槻市(現・さいたま市岩槻区)が五箇所、旧・大宮市(現・さいたま市大宮区)が4箇所あたりです。

宮川進氏

これも家康の「ごひいき」の気持ちからではないでしょうか。