2023年1月8日から始まるNHK大河ドラマ「どうする家康」の放送を記念して、2022年11月、越谷市北越谷地区センター・公民館主催「令和4年度・歴史探訪講座」の中で「家康と私たちの越谷」と題したお話会が行なわれた。じつは家康は越谷が大好きだった――。
はじめに
本記事は、話し手を務めたNPO法人越谷市郷土研究会・宮川進氏の講話内容を抜粋し、当日の雰囲気が伝わるよう、話し言葉にして綴ったものである。あくまでも要約なので、宮川氏が話した言葉を一字一句忠実に再現しているわけではない。
家康と私たちの越谷
みなさんこんにちは。宮川です。来年、令和5年(2023)に、家康が主人公となる大河ドラマ「どうする家康」が放映されます。越谷市民は、家康が越谷の礎をつくってくれたということをほとんど知りません。今日は、家康と私たちの越谷について、六つのお話しをさせていただきたいと思います。
- 越谷をつくってくれた。
- 越谷の川の整備をしてくれた。
- 日光街道に越谷を通してくれた。
- 越谷での鷹狩りが大好きだった。
- 越谷に御殿までつくった。
- 越谷にたくさんの朱印状を発給した。
越谷は家康がつくってくれた
最初に「こしがや」(越谷あるいは越ヶ谷)という名前について、お話しさせていただきます。
越谷、あるいは越ヶ谷とも表記されますが、「こしがや」は、日光街道ができたときに、新しくつくられた集落と思われます。日光街道の宿場の名前を付けるさいに、これまで「越ヶ谷郷」(こしがやごう)と呼ばれていた郷名(ごうめい)から「越谷」と名づけたられたようです。
家康が江戸幕府をつくり、全国を結ぶ交通網として五つの街道(※2)のひとつである日光街道をつくったから、そして街道筋に「越ヶ谷宿」を置いてくれたから、「越谷」ができたのです。
※2 五街道…江戸時代、日本橋を起点とした五つの主要街道。東海道・中山(なかせん)道・日光街道・甲州街道・奥州街道をいう。幕府の道中奉行が管理した。
そういうことでは、越谷という名前も家康がつけてくれたと言えます。
そのほかにも、家康は、越谷の礎(いしずえ)をたくさんつくってくれています。
越谷の川の整備をしてくれた
続きまして、家康と越谷についての二つ目のお話をさせていただきます。
家康は越谷に流れてきていた二つの大河、利根川と荒川をヨソにやってくれました。
家康が江戸に幕府を開くまでは、いまの利根川も荒川も越谷を通って、江戸湾に流れ込んでいました。江戸に幕府を置いて日本の中心にするのに、こんな危険なことはありませんし、お米の採れる平野の開拓もうまくいきません。
利根川東遷・荒川西遷
家康は、利根川と荒川の流路をヨソに流すことを考え、実行しました。
出典:荒川上流河川事務所(※3)
利根川は、銚子のほうに流すことにしました。これを利根川東遷(とねがわとうせん)といいます。荒川は入間川のほうに付け替えて、隅田川に流れるようにしました。これを荒川西遷(あらかわせいせん)といいます(上図参照)。
※3 国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所「荒川の歴史」(https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html)から転載(2022年12月5日閲覧)一部加工
元荒川を直流にした
さらに、荒川から元荒川になった流路には、大袋地区と花田地区に大きな曲流があって、洪水の危険がありましたので、曲流の根元の部分を締め切って両端をつなぎ、まっすぐな流れにしてしまいました。
このことで周辺地区に水不足が起こったために逆川(さかさがわ)をつくって水を補いました。
家康が河川を整備してくれたことで、新田開発も進み、越谷は安定した地域になったのです。