十王堂|宮本町一丁目自治会館

十王堂|宮本町一丁目自治会館

10時。十王堂(宮本町一丁目自治会館)に到着。かつてはお堂があったが、現在は、お堂は自治会館として建てなおされている。墓地の入口で、二基の庚申塔が出迎えてくれた。

庚申塔

庚申塔

向かって左側は、江戸中期・明和8年(1771)造塔の青面金剛像庚申塔。右側は阿弥陀如来立像が浮き彫りされた庚申塔。江戸前期・寛文3年(1663)造立。
 
阿弥陀如来を主尊にした庚申塔というのは越谷市内では三基しか確認されていない。江戸中期以降、庚申塔の主尊が青面金剛になる前の貴重な庚申塔といえる。

六地蔵

六地蔵

庚申塔の裏手には六地蔵。座った姿の六地蔵というのは珍しい。

お地蔵様

立ってるよりも座ってるほうがラクですから。

十王信仰

十王堂は全国にあるが、越谷ではここだけしかない。自治会館内(十王堂跡)には閻魔大王をはじめとする十王(※1)や奪衣婆(※2)の像などが祀られている。

※1 閻魔大王を筆頭とする冥土で死者の罪を裁く十人の裁判官。①不動明王②釈迦如来③文殊菩薩④普賢菩薩⑤地蔵菩薩⑥弥勒菩薩⑦薬師如来⑧観音菩薩⑨勢至菩薩⑩阿弥陀如来…。

※2 奪衣婆(だつえば)…三途の川(さんずのかわ)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。葬頭河婆(そうづかば)・姥神(うばがみ)などとも呼ばれる。人が死んだあとに最初に出会う冥界の役人が奪衣婆とされている。江戸時代末期には民間信仰の対象にもなった。

 
十王信仰とは、死者が冥土に行くと、十人の王のもとで、生前に行なったことの裁きを受けるという信仰。裁きを受けるさいに渡るのが三途の川。案内役の河内さんが、三途の川の渡り方を教えてくれた。

案内役の河内さん

三つの渡り方があるので三途(さんず)といいます。審判で善人と認められた人は橋を渡ります。罪が軽かった人は浅瀬を渡ります。重罪人は、三途の川の川下にある急流を歩いて渡ることになります。


続いて迎摂院(こうしょういん)へと向かった。

迎摂院

迎摂院

迎摂院に到着。住所は越谷市宮本町二丁目。創建年代は不詳だが、室町時代の天文4年(1535)の中興開基と伝えられる真言宗の古刹(こさつ)。明治5年(1872)の学制発布により、迎摂院が学校として使われた時期もあった。

石仏

山門に向かって右手に石仏が四基並んでいる。右端は地蔵菩薩立像。隣は江戸中期・享保7年(1722)の青面金剛像庚申塔、その横も同じく青面金剛像が浮き彫りされた舟型の庚申塔。江戸中期・元禄13年(1700)造塔。
 
左端は、江戸後期・寛政12年(1800)造塔の出羽三山供養塔。

出羽三山供養塔

出羽三山供養塔

出羽三山(でわさんざん)とは、山形県の中央にそびえる羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称。古くから信仰の対象として崇められてきた。

案内役の河内さん

三山は、それぞれ現在・過去・未来を表わしています。羽黒山は現在、月山は過去、湯殿山は未来。三山を巡礼することで、生きながら新しい魂に生まれ変われるという信仰が、江戸時代、庶民の間で広まりました。


江戸時代には各地で講(こう)が組織され、毎年、順番で出羽三山を参拝し、その記念として供養塔が造立された。
 
この供養塔の側面にも「埼玉郡四町野村講中」とあるので、四丁野村(現在の宮本町)の講中(こうじゅう=信仰者の仲間)が出羽三山に参詣した記念に建てたことがわかる。

木食観正の石碑

木食観正の石碑

山門をくぐった右手に、大きな石碑が立っている。
 
えもいわれぬ字体で「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)と刻まれているこの文字塔は、江戸後期・文政年間に活躍した行者・木食観正(もくじきかんしょう)の書による名号塔。文政4年(1822)造立。

寺領寄進朱印状|案内板

解説板|寺領寄進朱印状

迎摂院には、徳川家康をはじめ代々の徳川将軍から交付された朱印状が全部で12通保存されている。12通もの寺領朱印状が現存しているのは越谷市では迎摂院しかない。貴重な古文書として「寺領寄進朱印状」の名で越谷市の有形文化財に登録されている。
 
寺領朱印状とは、江戸時代、将軍が寺の所領を公認したことを記した公文書。迎摂院は、徳川家康から五石(ごこく)の朱印状が交付されている。

案内役の河内さん

1石(こく)は、米、約150キログラムに相当します。5石だと750キロですね。将軍さまからいただいた朱印状は、お寺の格式を示すものでもありました。


迎摂院をあとに次の目的地へ

移動|暗渠

移動|暗渠

暗渠(あんきょ=おおいをした水路)が続く裏道をぬいながら住宅街を進む。

会田家歴代の墓所

会田家歴代の墓所

10時半。会田家歴代の墓所に到着。住所は越谷市神明町。
 
江戸時代、越谷の発展につとめた名主・会田七左衛門政重(あいだ しちざえもん まさしげ)が、先妻の供養のために建てた寺院跡。「会田家歴代の墓所」の名で越谷市の有形文化財<歴史資料>にも登録されている。
 
月向山政重院(がっこうさんしょうじゅういん)と呼ばれた真言宗の寺院だったが、幕末に火災にあい墓地だけが残っている。墓地内には会田家歴代の墓石がある。政重の墓塔は見あたらない。
 
個人の墓地なので墓所内の見学は行なわなかった。

移動|神明橋

神明橋

会田家歴代の墓所をあとに、元荒川に架かる神明橋へ。神明橋を渡って元荒川左岸側の土手道(北越谷元荒川堤)に向かう。

元荒川の桜は五分咲き

北越谷元荒川堤の桜

神明橋から元荒川上流側を望む。桜は五分咲きといったところか。