越谷市北川崎にある吾妻権現社跡地の水神宮文字塔を手始めに、かつて古利根川にあった権現河岸跡と大杉の渡し・堂面の渡し跡を確認したあと、吾妻権現社の合祀先である川崎神社を取材した。
水神宮文字塔
水神塔の場所は、聖徳寺(越谷市北川崎18)の北北西100メートル、古利根川右岸沿いの小さな十字路の角にある。
昭和55年(1980)に発行された『越谷ふるさと散歩(下)』(※1)に、この水神塔について、「道に沿って茂る藪(やぶ)の下に寛政3年(1791)の水神宮と刻まれた石祠が置かれている」と、書かれている。
当時(43年前)の写真を見ると、水神塔のうしろ一帯は、うっそうとした藪になっている。今は、藪は取り払われてしまっていて、当時の面影はない。
※1 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「川崎神社」24頁
正面|主銘
水神塔の石塔形式は祠型。造立年代は、江戸後期・寛政3年(1791)。正面には「水神宮」と刻まれている。
左側面|脇銘
左側面は「寛政三辛亥六月吉日」
右側面|脇銘
右側面の下部には「川崎村」とある。
吾妻権現社跡
水神塔のすぐ裏手は古利根川(上の写真の正面前方が古利根川)。古利根川の右岸に面したこのあたりには、かつて権現河岸(ごんげんかし)と呼ばれた船着場があって、吾妻権現社(あずまごんげんしゃ)が祀られていた。
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「香取社 末社 吾妻権現」(※2)とあり、吾妻権現社は香取社の末社であったことが分かる。香取社は現在の川崎神社。
※2 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「川崎村」180頁
権現様
この水神塔は、吾妻権現社にあった。
平成7年(1995)に、この地を現地調査した、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、「水神塔のあるこのあたりを地元では『権現様』と呼んだ。毎年七月二十二日はこの『水神様』の縁日で、地元の人たちが小豆を供えて拝んだ。[中略]水神様はかつては船の安全や権現河岸の繁栄などを祈って信仰されたものであろあろう」(※3)と、述べている。
※3 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「権現社跡地」54頁
吾妻権現社は川崎神社に移転
吾妻権現社はその後、川崎神社に移転した。詳しくは後述する。
河岸場・渡し場跡
水神塔の裏手、元荒川右岸沿いに権現河岸(ごんげんかし)と呼ばれる渡し場があった。
『越谷ふるさと散歩(下)』に「この石祠(水神塔)の前から古利根川の河原に通じる道があった。そこはもと権現河岸と称された渡し場であった」(※4)と書かれている。
※4 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「川崎神社」24頁
渡し場に通じる道
上の写真は水神塔の脇の道。この道が、かつて権現河岸に通じる道だったのかもしれない。
権現河岸跡
脇道を抜けると古利根川右岸に出る。このあたりに「権現河岸」があった。対岸は松伏町。前方右手に、二郷半領揚水機場が見える。
大杉の渡し跡
権現河岸跡から古利根川の上流側を望む。篠原陸郎(2007)によると、権現河岸から200メートルほど上流に、大杉(越谷)と大川戸(松伏)を渡す「大杉の渡し」と呼ばれた渡し場があった。(※5a)
堂面の渡し跡
権現河岸跡から古利根川の下流を望む。篠原陸郎(2007)によると、権現河岸から400メートルほど下流(現在の堂面橋の上流側)に、向畑(越谷)と松伏(松伏)を渡す「堂面の渡し」があった。(※5b)
※5a ※5b 篠原陸郎(2007)「古利根川のほとりの寺院をたずねる(3)河岸のくらしと林西寺」
権現河岸・大杉の渡し・堂面の渡しについては、越谷市郷土研究会の篠原陸郎氏が「古利根川のほとりの寺院をたずねる(3)河岸のくらしと林西寺」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/201.pdf
権現河岸跡と水神塔をあとに、吾妻権現社が移転した川崎神社に向かった。
川崎神社|吾妻権現社の移転先
川崎神社は、吾妻権現社跡(水神塔)から西南西200メートル。大杉公園通り沿いにある(越谷市北川崎107)
『越谷ふるさと散歩(下)』に、「(川崎神社の)参道をはさんだ向かい側に瓦葺き木造の堂舎があるが、これがもと古利根河畔に勧請(かんじょう)されていた吾妻権現社である」(※6)と書かれている。
昭和55年(1980)当時は、川崎神社の参道に、吾妻権現社の堂舎があったようだが、今は見あたらない。
※6 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「川崎神社」24-25頁
本殿の東隣に移転
加藤幸一(2019)「新方地区の石仏」には、「吾妻権現社の建物は川崎神社本殿の東隣にそっくり移されたが、今はなく、別の建物(祭器庫)が建っている」(※7)とある。
現在、社殿の東隣は祭器庫になっている。上の写真の右端、水色のひさしが付いた小さな建物が祭器庫。
※7 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「権現社跡地」54頁
吾妻権現社(?)の金幣
また、『埼玉の神社』「川崎神社」の項には、「本殿内に『安政四巳年(1857)四月吉日』銘の金幣(きんぺい)が奉安されている。これは字川端に鎮座していた吾妻神社のものである」と書かれている。(※8)
川端(かわばた)は、旧川崎村(現・北川崎)の村組。旧川崎村は、川端組・中組(なかぐみ)・農良組(のらぐみ)の三つの村組に分かれていた。吾妻神社は、吾妻権現社のことと思われる。
※8 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「川崎神社」1176頁
吾妻権現社は川崎神社に合祀された
吾妻権現社は、堂舎ごと川崎神社の境内地に移されたが、その後、取り壊され、川崎神社の本堂に合祀されたようである。
水神塔の場所
吾妻権現社跡地の水神宮文字塔の場所は、埼玉県越谷市北川崎( 地図 )。堂面橋から大杉公園通りを通って聖徳寺入口を過ぎ、ひとつめの小さな十字路を右折。道なりに200メートルほど進んだ路傍の右手にある。
参考文献
本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。
加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)