越谷市の蒲生茶屋通り(旧日光街道)沿いにある通称・ぎょうだい様。江戸中期・宝暦7年(1757)の砂利道供養塔の上に載っている異様な姿をした石像で、地元では鷲の神様と言われていたが、ぎょうだい様の正体は烏天狗だった。

ぎょうだい様

ぎょうだい様|越谷市蒲生

蒲生茶屋通りに面して、高さ2メートル50センチほどの木の祠(覆堂=ふくどう)がある。うしろの建物は、歌舞伎などの小道具を扱っている藤浪小道具の第三号倉庫。住所は越谷市蒲生1-2-10。この覆堂の中には「ぎょうだいさま」と呼ばれている石塔が納められている。

建碑の経緯

ぎょうだい様の顔

ぎょうだい様は、江戸中期・宝暦7年(1757)に行なわれた日光街道大修理のさいに、道に砂利(じゃり)が敷かれた記念碑(砂利道供養塔)で、道を歩く人々の道中安全を願って建てられた。以前は覆堂に入っていなかったので直接拝むことができた。

昔の写真

砂利道供養塔(ぎょうだい様)

上の写真は昭和43年(1978年)ごろに撮影された覆堂に入る前のぎょうだい様。出典は越谷市デジタルアーカイブ(※1)

※1 越谷市デジタルアーカイブ( 砂利道供養塔〈ぎょうだい様〉

旅の神様

旅の神様|ぎょうだい様

以来、ぎょうだい様は、交通の神様、とくに足の神様として慕われ、旅のさいに足を痛めないように、道中、わらじを奉納する人々が絶えなかったという。今も覆堂の前には奉納されたわらじがつるされている。

ぎょうだい様の像容

ぎょうだい様

ぎょうだい様の像容については諸説ある。

  1. 鳥(とり)
  2. 河童(かっぱ)
  3. 鷲(わし)
  4. 蛙(かえる)
  5. 烏(からす)

 
「鳥のような、河童のような容貌の像型は、鷲の神様だというが、そのいわれも不明である」(※2)「蛙か烏か、河童のような得体の知れない形の石塔」(※3)

※2『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)「普請供養」150頁

※3『ふるさと蒲生の歴史ものがたり(上)』越谷市蒲生地区コミュニティ推進協議会(1998年)150頁

どの説もいわれや像容は不明であるとして、正体は決めかねている。

ぎょうだい様の正体は?

(出典)越谷市デジタルアーカイブ

上の写真は昭和43年(1978年)ごろに撮影されたぎょうだい様。出典は越谷市デジタルアーカイブ(※4)

※4 越谷市デジタルアーカイブ( 砂利道供養塔〈ぎょうだい様〉

ぎょうだい様は「砂利道供養」と刻まれた石塔の上に載っている。この像は、行者様(ぎょうじゃさま)とも「おかまさま」とも呼ばれている。
 
ぎょうだい様は、漢字で書くと「行台様」。行台(ぎょうだい)とは行者(ぎょうじゃ)=山伏(やまぶし)の尊称。「おかまさま」は漢字では「お竃様」と書く。

ぎょうだい様の正体は烏天狗

ぎょうだい様(※5)

※5 画像の出典は越谷市デジタルアーカイブ(資料名:ぎょうだい様)。元画像からぎょうだい様の本体部分だけを切り取った。

鳥・河童・鷲・蛙・烏……。ぎょうだい様の像容については、上述したように諸説あるが、越谷市郷土研究会の大谷達人(おおたにたつを)氏は、「ぎょうだい様は修験宗の元祖といえる役小角(えんのおづぬ)の護法である烏天狗(からすてんぐ)の容姿を真似て造ったもの」と、述べている。
 
なんと、ぎょうだい様の正体は烏天狗だった。
 
ぎょうだい様の胸の部分は、龕灯(かんどう)になっていて、龕灯の下には二体の鬼が浮き彫りされている。二体の鬼は、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)で、役小角に仕えた夫婦の鬼。

龕灯

龕灯

龕灯(かんどう)とは、ろうそくを立てるための壇。

前鬼

前鬼

向かって右は前鬼。斧をもった夫で赤鬼。

後鬼

後鬼

向かって左は後鬼。水瓶を持って笈(おい)を背負っている妻で青鬼。

ぎょうだい様

ぎょうだい様(※6)

これらを踏まえて、もう一度、ぎょうだい様をよく見てみよう。役小角を守護する烏天狗が、前鬼と後鬼を従えて、羽根で体を包み込むようにして端座している姿、そのものだ。

※6 画像の出典は越谷市デジタルアーカイブ(資料名:ぎょうだい様)。元画像からぎょうだい様の本体部分だけを切り取った。

ぎょうだいさまの像形の真相

砂利道供養塔(ぎょうだい様)

ぎょうだい様(※7)

※7 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 砂利道供養塔〈ぎょうだい様〉

2021年5月12日・19日、越谷市立図書館で行なわれた郷土歴史講座「蒲生地区の歴史」で、講師を務めたNPO法人越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏が、大谷達人氏から提供された資料に基づき、「ぎょうだいさまの像形の真相」について、解説があった。
 
以下、概要を紹介する。
 
長くなるが、「ぎょうだい様は役小角の護法・烏天狗である」とする大谷氏の説が、漏れなくまとめられている。

この像を地元では、「ぎょうだいさま:行台様」「ぎょうじゃさま:行者様」「おかまさま:御竈様」などと呼んでいる。
 
行者は厳しい山壑(さんがく)修行で心身を鍛え修験道に携わる修行者で山伏ともいわれているが、里に降り民衆の生活向上に与(くみ)する者を行者様と崇めて尊称する。隣接の春日部市には行者達が開拓した新田が幾つも有り、民衆の中に溶け込んでいる。
 
そして修行する行体(ぎょうたい)は、烏天狗を聯想(れんそう)させ同一視していて、円空仏(えんくうぶつ)をはじめ作仏聖(さくぶつひじり)の彫容はその様を描いたものが多い。
 
また、行台とは、行者の中の代位(だいい)者、すなわち大政(たいせい)の総理(そうり)者をいい、修験道開祖の役小角(えんのおづぬ)を現わす。
 
御竈(おかま)様とは竈(かまど)の神を指すが、その火防(ひぶせ)の御札(おふだ)を配るのは幕府から認可された行者の仕事であり、御竈様(おかまさま)=行者を表わし、俗称として御竈様とも謂(い)われている。
 
このため、一般には役小角を守護する烏天狗(からすてんぐ)に似せて模(かたど)ることが多いようだ。
 
なお、ぎょうだいさまが建立された背景は、江戸中期・宝暦7年(1757年)5月の豪雨で利根川が決壊し、綾瀬川も押切られ大災害を招いたことによる。
 
蒲生あたりの日光道中は水没し、往来が途絶えたほどであり、幕府から道中修復を命じられた(=自普請)。そのときの総指揮者が行者達であり、修験道の開祖を刻むことで砂利道の将来への安穏を祈ったものであろう。

※8 越谷市立図書館主催・郷土歴史講座(2021年5月12日・19日)「蒲生地区の歴史」配付資料(大谷達人氏提供)

参考

大谷達人(おおたにたつを)氏のぎょうだい様に関する論考「ぎょうだい様建碑の経緯について」は、越谷市郷土研究会のホームページで閲覧可能。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/364.pdf

現在のぎょうだい様

砂利道供養塔(ぎょうだい様)

現在は、ぎょうだいさまは、屋根のない覆堂(ふくどう)に安置され、全体像を見ることはできないが、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、屋根をはずしたのは、「(ぎょうだい様=烏天狗が)自由に飛翔できるようにとの建築者の思いからであろう」と、述べている。

ぎょうだい様の後ろ姿

ぎょうだい様の後ろ姿

ぎょうだい様の後ろ姿。全体を見ることができないのが残念。

砂利道供養塔