越谷市小曽川(おそがわ)の鎮守・久伊豆神社の石仏と石塔のほか、境内の風景などを現地で取材した写真とともにお伝えする。場所は、しらこばと水上公園と元荒川の中間、越谷岩槻線(埼玉県道48号)沿いにある。
歴史
小曽川久伊豆神社(おそがわ・ひさいずじんじゃ)の創建年代は、つまびらかでないが、江戸中期・元禄以前の創立(※1)と伝えられている。江戸後期に幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』によると、久伊豆神社は小曽川村と砂原村の鎮守だった(※2)という。
※1 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)1202頁に、小曽川久伊豆神社の創立は「元禄以前」とある。
※2 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「小曽川村」146頁に「久伊豆神社 当村及び砂原村の鎮守とす、」と記されている。
明治維新後に、小曽川村の村社になって、明治45年(1912)に地元の天神社と道祖神社を合祀。本殿には天神社の天満天神像と、江戸前期・承応2年(1653)の十一面観音立像の懸仏(かけぼとけ)2枚が、安置されている。御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。
まずは境内の石仏と記念碑から見ていこう。
石仏と記念碑
境内には 5基の石仏(文字塔)と記念碑が 3基ある。
拝殿左脇
拝殿の左脇に 3基の石仏が並んでいる。左から疱神供養塔、御岳山供養塔、金比羅権現文字塔。
疱神供養塔
「疱神」(ほうじん)と刻まれた祠型の石祠。造立年代は不詳。疱神とは疱瘡神(ほうそうがみ)のことと思われる。越谷市内には「疱瘡神」を主尊とする文字塔が 9基ある。
①小曽川久伊豆神社(小曽川)②船渡香取神社(船渡)③上谷稲荷神社(川柳町)④千疋伊南理神社(東町)⑤野中薬師堂(南荻島)⑥大杉新田稲荷神社(大杉)⑦下間久里香取神社(下間久里)⑧大吉天満宮(大吉)⑨個人宅の敷地内(大成町)
御岳山供養塔
江戸末期・文久2年(1861)の祠型の石祠。(正面)御岳山(左側面)文久二壬戌九月吉日(右側面)小曽川村講中。台石には寄進者34人の名前が刻まれている。(※3)
御岳山(みたたけさん)は、東京都青梅市にある標高929メートルの山。古くから霊峰と崇められ、山頂にある武蔵御嶽神社は、修験道の山岳信仰の霊場として、人々の信仰をあつめてきた。
※3 劣化がはげしく刻まれている文字は解読できない。正面・側面・台石の銘文については、加藤幸一(2002)「荻島地区の石仏」越谷市立図書館蔵(p.38)と、越谷市史編さん室編(1969)『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(p.210)によった。
側面
右側面に「小曽川村講中」の銘があることから、この石塔は、小曽川村の「御獄講」(みたけこう)の人々が寄進した供養塔と思われる。
金比羅権現文字塔
金比羅権現(こんぴらごんげん)文字塔。自然石に「金比羅権現」と刻まれている。造立年代は不詳。
境内左手
境内の左手には、3基の記念碑と、2基の石塔が並んでいる。
日露戦争凱旋碑
日露戦争凱旋碑。明治39年(1906)11月建立。正面の中央に「明治三十七八年戦役凱旋碑」(※4)、その下に凱旋した七人の名前が刻まれている。裏面には、賛成者(17人)世話人(14人)発起者(7人)の名前がある。
※4 明治三十七八年戦役(めいじさんじゅうしちはちねんせんえき)とは、日露戦争の別称。明治37年(1904)から38年(1905)にかけて行なわれた日露戦争は、「明治三十七八年戦役」とも呼ばれ、日本の死者は10万人超、12万人ともいわれている。
大杉神社文字塔
「大杉神社」文字塔。石塔型式は祠型。明治21年(1888)造立。正面の主銘は「大杉神社」。左側面には「明治二十一年一月吉日」「小曽川村」とある。大杉神社は茨城県稲敷市阿波(あば)に総本社がある。総本社は「あんばさま」の愛称で親しまれている。
主尊不明の石塔
主尊不明の石塔。造立年代も不詳。正面や側面の文字は読みとれない。
神社改築記念碑
神社改築記念碑。昭和42年(1967)4月建立。正面に中央に「神社改築記念碑」と刻まれている。裏面には、賛成者(38人)と世話人(7人)の名前が刻まれているほか、「外氏子一同」「昭和四十二年四月吉日建立」の銘が確認できる。
この記念碑は、昭和37年(1962)7月12日に神社を改築し、昭和42年(1967)1月16日に、道路の拡張によって、石鳥居・幟枠・社標を移転した記念に建てられた。
日清戦没勲功碑
自然石の日清戦没勲功碑。明治29年(1896)4月建立。「勲功碑」と題し、日清戦争(※5)で戦死した、小曽川村出身の軍曹の勲功が漢文で書かれている。裏面には、賛成人(38人)発起人(6人)のほか、石工と鳶の名前が刻まれている。
※5 日清戦争(にっしんせんそう)…明治27年(1894)夏から28年(1895)春にかけて、朝鮮の支配をめぐって行なわれた日本と清国(中国)との戦争。近代日本が初めて体験した本格的な戦争で、勝利した日本の戦死者は 1万7,000人にのぼった。
続いて境内の風景を紹介する。
境内の風景
杉木立に囲まれた神域は狭いながらも神々しい雰囲気がただよっている。道路(越谷岩槻線)脇から社殿までは石畳が続いている。
社標と幟枠
鳥居の前にある社標は昭和3年(1927)11月建立。「村社 久伊豆神社」と刻まれている。裏面には「御大典紀年」(※6)「小曽川青年會(会)」とある。
※6 御大典(ごたいてん)とは、天皇陛下の即位をお祝いすること。この社標は昭和3年の建立なので、昭和3年(1928)11月10日に京都御所で行なわれた昭和天皇の即位の礼をお祝いする「御大典記念碑」を兼ねている。「紀年」は「記念」と同義。
幟立て(のぼりたて=ポール)の前には「奉納 氏子中」と赤文字で刻まれた幟枠石(のぼりわくいし)が建てられている。この幟石は平成15年(2003)に建て替えられた。
旧・幟枠
建て替えられる前の古い幟枠(のぼりわく)は、敷地の片隅に片づけられている。上の写真、長方形の小さな穴が上部に二つずつあけられた二対(4個)の石柱が、旧・幟枠。
鳥居
花崗岩(かこうがん)の石鳥居は江戸中期・寛保2年(1742)建立。神額は掛けられていない。鳥居の様式は明神(みょうじん)鳥居。
鳥居についての逸話を紹介する。
明治45年(1912)、小曽川と砂原の村境にあった天神社が、小曽川久伊豆神社に合祀されたが、そのときに、天神社の鳥居の所有権をめぐって、両村で争いになった。そこで、小曽川と砂原の村人たちが綱引きをして所有権を決めることになり、砂原村が勝利。天神社の鳥居は砂原久伊豆神社に渡った、と伝えられている。
上記の逸話は、埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)1202頁から抜粋・要約した。
御神燈
鳥居をくぐると参道の両脇に御神燈(ごしんとう)が建っている。竿には「久伊豆神社」、台座には 氏子中」と、ともに赤い文字で刻まれている。平成17年(2005)4月建立。新しく奉納された御神燈だ。
旧・御神燈
古い御神燈は、分解されて、鳥居脇の片隅に片づけられていた。「天保二」の文字が確認できる。天保2年(1831)というと江戸後期だ。
『越谷ふるさと散歩(上)』(※7)に、小曽川久伊豆神社の御神燈について「天保2年(1831)の御神燈」と記されていることから、この分解された御神燈が、以前のものとみて間違いない。
※7 越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「野島と小曽川集落」164頁
手水鉢
参道右手、御神燈の斜め前に石造りの手水鉢(ちょうずばち)がある。年代は不詳。江戸時代のものと思われる。
社務所|神楽殿跡
御神燈を過ぎると参道の正面に社殿、右手に社務所がある。かつて社務所のあたりに神楽殿があった。
『越谷ふるさと散歩(上)』(※8)によると「神殿のかたわらには草葺きの大きな神楽殿が建っているが、今は使われていないとみえ荒れたままになっている」とある。
※8 越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「野島と小曽川集落」165頁・165頁
参考|神楽殿
※小曽川久伊豆神社神楽殿(出典:越谷市デジタルアーカイブ)
越谷市デジタルアーカイブに、昭和54年(1979年)5月に撮影された、草葺きの神楽殿の写真が公開されている。上の写真(※9)。『越谷ふるさと散歩(上)』にあるように、使われていないとみえ荒れたままになっている。
※9 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 小曽川久伊豆神社神楽殿)
拝殿
拝殿は瓦葺きで簡素な造り。こぢんまりしている。
神額
屋根の下に、「久伊豆大明神」と「天神社」と刻まれた神額が並んで掛けられている。天神社の神額は、明治45年(1912)に久伊豆神社に合祀されたときのものかと思ったが、大正2年(1913)12月に奉納されたものだった。
本殿
うしろにまわると、ブロック塀に囲まれた本殿があった。今は、拝殿・本殿ともに簡素な造りになっているが、瓦葺きに改築される前、草葺き屋根の神殿は、小さいながらも厳かな雰囲気のお社だったのかもしれない。
小曽川久伊豆神社の見どころは以上
参拝情報
小曽川久伊豆神社の住所は、埼玉県越谷市小曽川434( 地図 )。郵便番号は 343-0802。場所は、朝日バス「越谷西高校入口」バス停の前。越谷岩槻線(埼玉県道48号)沿い。鳥居の横に車を駐めるスペースがある。
関連記事
今回取材した小曽川久伊豆神社の西隣には、慈眼寺(じげんじ)跡墓地(小曽川公民館)がある。墓地の入口や公民館の脇には庚申塔などの石仏が並べられている。慈眼寺跡墓地の石仏については下記記事で紹介している。
越谷市小曽川公民館横、越谷岩槻線沿いにある慈眼寺(じげんじ)跡共同墓地。小道をはさんだ隣には小曽川の久伊豆神社がある。公民館の脇に並べられている庚申塔や墓地入口前にある百堂供養塔などの石仏や石塔を調査した。
参考文献
本記事を作成するにあたっては、関係書籍や調査報告書も参考にした。参考にした文献を以下に記す。引用した箇所については記事中に引用箇所を明記した。
加藤幸一「荻島地区の石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館蔵)
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青砥書房(2011年4月1日発行)
外山晴彦・『サライ』編集部編『神社の見方』小学館(2002年8月10日発行)