徳川家康と越谷
合い宿と立場
会田金物店(旧日光街道・越ヶ谷宿)
合い宿(あいじゅく)とは、複数の宿場でひとつの宿場業務を負担する制度です。正確には、越ヶ谷宿は、越ヶ谷宿と大沢宿の合い宿でした。
合い宿は、ふたつの宿でひとつの宿場業務を行なうことが多いのですが、甲州街道の布田宿のように、下布田・上布田・下石原・上石原の四宿で六日ずつ、国領宿が、25日から晦日(みそか)という五宿の振り分けで宿場業務を行なっていたところもありました。
日光街道では、越ヶ谷宿と大沢宿、栗橋宿と中田宿、徳治郎宿は上・中・下の三宿の合い宿でした。
越ヶ谷宿と大沢宿は、当所は隔日交代で伝馬(※3)機能を分担していましたが、のちには両宿の機能を合体し、名称も一括して「越ヶ谷宿」と総称することになりました。
※3 宿場では、人や荷物を運ぶために馬を用意した。この馬を伝馬(てんま)という。公用の書状や荷物を出発地から目的地まで運ぶときは、同じ人や馬が運ぶのではなく、宿場ごとに人馬を交替して運んだ。これを「伝馬制」(てんませい)という。
費用の分担などは支払いの名目によって割合が異なるなど、越谷と大沢を合体した制度は思うように機能しなかったようではあります。
立場
鰻・稲荷屋(旧日光街道・越ヶ谷宿)
立場(たてば)とは、宿場と宿場の間にある旅人のお休み所です。たとえば東海道ですと、保土ヶ谷宿と戸塚宿との間、箱根駅伝で有名な「権太坂」(ごんたさか)の上には境木立場(さかいぎたてば)。名物は牡丹餅(ぼたんもち)でした。
日光街道の草加と越谷の間には蒲生の立場があって名物は焼き米。越谷と春日部の間には間久里(まくり)の立場。名物は鰻(うなぎ)でした。
日光街道の脇街道
日光街道の脇街道として「日光御成街道」(にっこうおなりかいどう)と「日光例幣使街道」(にっこうれいへいしかいどう)のふたつの道があります。
日光御成街道
日光御成街道(にっこうおなりかいどう)、日光御成道(にっこうおなりみち)とも呼ばれていますが、将軍が、ご先祖様の家康を祀った日光東照宮へお参りするための将軍専用の道で、大名でも通ることはできませんでした。
江戸・本郷から川口・岩槻を通って、日光街道の幸手の手前で、日光街道に合流する道です。
ところが、将軍の日光社参のときは、いつも御成道を通ったわけではありません。二代目将軍・秀忠の最初の社参(元和3年〈1617〉)には、千住から草加・越谷を経て岩槻に入り、幸手へ抜けています。
そのあとも三代目の家光、四代目・家綱も越谷を通っています。三人の将軍が越谷を通っていることは、忘れないようにしたいものです。
日光例幣使街道
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、天皇のお使いとして、家康の墓に参る街道です。
毎回、例幣使(天皇のお使い)に任じられた公家が50人前後の一行(いっこう)で、中山道の倉賀野宿(くらがのしゅく=群馬県)から分かれる例幣使街道を通って日光へ参り、社参後は、日光街道を通って江戸を経て、東海道で京都に帰りました。
将軍の日光社参は全部で19回だったのに対し、例幣使の参拝は221回、毎年かかさず、4月に行なわれました。