石仏調査|大道西部
旧村境
大野島越谷線のガードレールの奥が藪になっている場所がある。ここは旧・大道村と三野宮村の村境だった。「たしかこのあたりにあったはずなんだけどなぁ…」
二基の石塔
「あった、あった、ありました」。石塔が二基、茂みに隠れていた。
道標石塔
左が年代不詳の道標石塔。右が江戸後期・文化6年(1809)の道標付き普門品(※2)供養塔。
※2 普門品(ふもんぼん)とは、法華経の第八巻第二五品「観世音菩薩普門品」の別称。観音経(かんのんぎょう)とも呼ばれる。観音経(普門品)を一定回数読誦(どくじゅ)した記念に建てたのが普門品供養塔。この普門品供養塔には道しるべも刻まれている。
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この二基の石塔については別記事で詳しく解説している。
越谷市大道の最西端、元荒川左岸側土手沿いの藪の中にある二基の道しるべ付き石塔を調べた。調査した路傍の石仏を写真とともにお伝えする。調査日は2025年3月9日。
堤防道
ガードレールに沿って道を進むとY字路にぶつかる。左は大野島越谷線。右は旧道(堤防道)。旧道は現在、車両通行止めになっている。堤防道を進む。右手の木が生い茂っているところは元荒川左岸堤。
大道の堤防道|昭和54年
(出典)越谷市デジタルアーカイブ( 大道の堤防道 )
上の写真は、46年前、昭和54年(1979年)に撮影された堤防道の風景。出典は越谷市デジタルアーカイブ。左手に写っている商店は、大野島越谷線の拡張工事のさいに、別の場所に移転した。
共同墓地|大日堂跡
堤防道の左手、小高い丘の上にある墓地は、大道上手(わて)共同墓地。
大道の地内(じない)は、「上手」(わて)と「新田」(しんでん)の二地区に分かれていて、このあたりは「上手」と呼ばれている。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、この共同墓地があった場所には、「地元では『寮』と呼ばれる、十一面観音像を安置する真言宗のお堂があり[中略]この『寮』を『大日堂』とも呼んでいた」(※3)という。
※3 加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)66頁
無縁塚
墓地の一角に無縁塚がある。この中にある地蔵菩薩座像を戴いた墓塔を探す。最後列の左から二番目にあった。
地蔵菩薩座像き墓塔
この墓塔は、江戸中期・寛保3年(1743)建立。地蔵菩薩の顔が欠けてしまっている。
地蔵菩薩座像の下には、地蔵菩薩を表わす梵字「カ」、その下には「道印清信士」「妙印清信女」「妙温清信女」と、三人の戒名が刻まれている。
上手組香取社跡
上手組香取社跡
共同墓地の前は更地になっているが、かつて、ここには、大道の上手組(わてぐみ)が管理する香取社があった。
『埼玉の神社』(※4)に、上手組香取社で行なわれていた「香取講」についての記述があるので、以下、引用・抜粋する。
上手の人々の間では、上手の香取神社を祭る香取講という行事があり、一・四・五・九・十一の各月に一回ずつ宿に集まって、床の間に「香取大明神」の掛軸を掛けて礼拝したあと、飲食した。この年五回の香取講のうち、十一月の行事をとくに「ゴミッパタキ」と呼んだ。
引用元:『埼玉の神社』(※4)
※4 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「大道神社」1143頁
備考|庚申塔
上手組香取社にあった庚申塔
上手組香取社の境内には、青面金剛像庚申塔があったが(上の写真)、上手組香取社が廃社になったときに、大道香取神社(大道神社)に移された。大道香取神社はこのあと立ち寄るので、上手組香取社にあった青面金剛像庚申塔については、そこで紹介する。
次の場所に移動。
移動|大野島越谷線
大袋西口通りと大野島越谷線が交わる丁字路に再び戻った。横断歩道を渡って、大野島越谷線を右に進む。
角地の石塔
100メートルほど歩るくと十字路に出る。その左手の角地(電信柱の脇)に、石塔が一基、置かれていた。
霊神塔
この石塔は霊神塔(れいじんとう)。型式は角柱型。江戸後期・弘化3年(1846)の建立。正面に「政英彦霊神」と刻まれている。
この霊神塔について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、次のように述べている。
「霊神とは、一般には霊験あらたかな神という意味。この石塔は、亡くなられた人の神号『政英彦』の下に『霊神』の語を付けて『政英彦』を神として敬ったものです」(※5)
※5 加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)67頁
移動
霊神塔をあとに、大野島越谷線から離れて住宅街に入る。次の調査地は個人宅の屋敷神。家の人の許可を得て、敷地内に入る。
おいなりさま
朱塗りの鳥居の先に小さなお社(やしろ)があり、「荒神宮」(こうじんぐう)と刻まれた石塔が安置されている。
案内してくださった家の奥さまの話によると(石塔には「荒神宮」と刻まれているが)地元では「おいなりさま」(お稲荷さま)と呼ばれていたそうだ。
荒神宮文字塔
荒神宮文字塔(通称おいなりさま)は、江戸後期・享和2年(1802)造塔。石塔型式は祠型(ほこらがた)。正面中央に「荒神宮」と刻まれている。
左側面
左側面(向かって右側)の銘は「享和二壬戌年」
右側面
右側面(向かって左側)には「九月吉祥日」と刻まれている。
対応してくださった奥さまにお礼を述べて、前半最後の調査場所、大道香取神社へと向かった。