越谷市恩間新田の西端、新方川右岸に広がる田んぼの中に三基の馬頭観音塔が立っている。小さな塚になっているこの場所は、かつての馬捨て場跡。三基の馬頭観音塔を調べた。
村境の馬捨て場跡
三基の馬頭観音塔が立っている田んぼの中の(盛り土されている)小さな塚は、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると「かつて恩間新田村の馬捨て場だった」(※1)という。恩間新田の村はずれ(春日部・増田新田との村境)にあたる。
江戸時代、死んだ馬を埋葬した場所。村境など人里離れた一定の場所に設けられていた。死馬を供養するために、馬捨て場には、馬頭観音塔が建てられた。
※1 越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部主催「恩間新田の巡検」2023年2月16日・当日配付資料(作成:加藤幸一)「恩間新田の馬捨て場跡」
馬頭観音塔と新方川
馬頭観音塔と新方川
馬頭観音塔(上の黄色い丸印)が立っている田んぼは、新方川(にいがたがわ)右岸にあるが(上の写真)、明治後期までは、新方川(当時は千間堀=せんげんぼり)は、現在の流路の西南100メートルほど先を流れていたので、馬頭観音塔は千間堀の左岸にあった。
新方川(千間堀)新旧流路
新方川(千間堀)新旧流路(※2)
上の地図で示した、水色の線が現在の新方川(新方領堀)の流路。紺色の線が、かつての新方川(千間堀)の推定流路。現在は埋め立てられている。赤い丸印(●)は三基の馬頭観音塔の位置。
※2 地図はGoogleマップを加工して作成
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、恩間新田の南西を流れる新方川(千間堀)の流路について、次のように述べている。
明治の終わり(明治42年/1909年)から大正(大正5年/1919年)にかけて行なわれた新方領耕地整理事業の一環で、新たに新方領堀(にいがたりょうぼり)が掘られ、千間堀は直流になりました。これが現在の恩間新田の南西を流れる新方川の流路です。
新方領堀(のちの新方川)が掘られたことで、恩間新田の一部が南北に分断されてしまいました。引用元:「恩間新田の巡検」(※3)
※3 越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部主催「恩間新田の巡検」2023年2月16日・当日配付資料(作成:加藤幸一)
夏場の田んぼ
繁茂した草に覆われた夏場の塚
塚の上に立っている三基の馬頭観音塔は、稲作が始まってしまうと、繁茂した草に隠れて見えなくなってしまうので(上の写真の黄色い丸印)、草が枯れた時期になる冬場にしか確認することができない。
三基の馬頭観音塔
調査日は、2025年2月20日。調べたのはのは以下の三基。
- 馬頭観音文字塔|明治25年
- 馬頭観音像塔|宝暦5年
- 馬頭観音文字塔|安政6年
特記
それでは三基の馬頭観音塔を見ていく。
馬頭観音文字塔|明治25年
向かって左側。斜めに傾いているのは、明治25年(1892)造塔の馬頭観音文字塔。石塔型式は駒型。正面の主銘は「馬頭観世音」(ばとうかんぜおん)
左側面
左側面(向かって右側)には「明治廿五年八月」と刻まれている。「廿」は「にじゅう」と読む。「二十」のこと。
「馬の頭をもつ観音」の意。もともとは六観音・七観音のひとつとして仏教的に信仰されていたが、江戸中期以降、農耕や運搬などで馬を使用する人々から信仰され、馬の供養や往来の安全を願って、建立されるようになった。個人による造立も目立つ。
馬頭観音像塔|宝暦5年
正面は、江戸中期・宝暦5年(1755)造塔の馬頭観音像塔。石塔型式は駒型。中央に、蓮台(れんだい)に乗った馬頭観音立像が浮き彫りされている。
像容は三面六臂(さんめんろっぴ=顔が三面、腕が六本)。顔は忿怒相(ふんぬそう)。両手で馬口印(※4)を結んでいる。持物は、左上手に法輪、左下手に弓、右上手に金剛棒(のようなもの)、右下手に矢。
※4 馬口印(まこういん/まこういん)とは、人差し指と薬指を伸ばして中指を折る馬頭観音特有の印相。
脇銘
両脇の銘は「為如是畜生発菩提心也」「宝暦五乙亥十月吉日」。下部の銘は「施主」「恩間邑新田」「観音経講中」(かんのんぎょう・こうじゅう)とある。
脇銘から、この馬頭観音塔は、恩間村新田の観世音菩薩を信仰する村人たち(講中)によって、建てられたことがわかる。
馬頭観音文字塔|安政6年
向かって右側。前に倒れかけているのは、江戸末期・安政6年(1859)造塔の馬頭観音文字塔。石塔型式は駒型。正面の主銘は「馬頭観世音」
左側面
左側面(向かって右側)の銘は「安政六未七月十二日」
右側面
右側面(向かって左側)には「恩間新田」の銘と、施主名(個人名)が刻まれている。
調査は以上
後記
馬頭観音塔と田園風景
三基の馬頭観音塔が立っているあたり一帯は、昔ながらの田園風景を今に残しているが、いつの日か、宅地化が進んだとき、この馬頭観音塔は、破棄されて、姿を消してしまうのかもしれない。残しておきたい風景のひとつである。
場所
三基の馬頭観音塔がある場所は、越谷市恩間新田の西端、新方川右岸に広がる田んぼの(盛り土されている)塚の上。住所は春日部市増田新田になる( 地図 )。個人所有の土地なので許可なく立ち入ることは厳禁。
関連記事
2024年6月6日。越谷市恩間新田(おんましんでん)の石仏と石塔を調査した。稲荷神社を起点に、恩間新田公民館(能満寺)、薬師堂など、五箇所をめぐった。
参考文献
本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。
越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部主催「恩間新田の巡検」2023年2月16日・当日配付資料(作成:加藤幸一)
加藤幸一(2016)「越谷市内を流れる明治初期の千間堀」
加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12改訂(越谷市立図書館蔵)
『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
謝辞
本記事をまとめるにあたって、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただきました。加藤氏には心からお礼申しあげます。