越谷市恩間の勢至堂(せいしどう)にある庚申塔と石仏などの現状を調査した。当日の様子を写真とともに紹介する。場所は越谷市立大袋北小学校の西50メートル、間久里川緑道(まくりがわりょくどう)から南に入ったところにある。
恩間勢至堂
調査したのは 2022年9月25日と26日の二日間。まずは勢至堂について簡単に触れておく。
現在は集会所と墓地になっているが、かつては寺院だった。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』には「勢至堂 西蔵院の持」(※1)と記されている。いつごろ廃寺になったかは不明。
※1 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「恩間村」の項、147頁
入口脇の石仏
入口の両脇で、青面金剛像庚申塔と地蔵菩薩立像が向かい合って並んでいる。
青面金剛像庚申塔
庚申塔には主尊の青面金剛が浮き彫りされている。石塔型式は駒型。江戸中期・宝暦5年(1755)造立。右側面の銘は「宝暦五亥天九月吉日」、台石には「恩間村講中」ほか寄進者8人の名前が確認できる。
庚申塔の彫物
青面金剛は六手合掌型。両手で合掌。左上手でショケラと呼ばれる女人の髪をつかみ、左下手に弓を持っている。右上手には宝剣、右下手には矢。両足で邪気を踏みつけている。頭の左右に日月。両脚の脇に二鶏。邪気の下には三猿が陽刻されている。
「越谷型」青面金剛庚申塔
NPO法人越谷市郷土研究会・副会長の秦野秀明氏は、この庚申塔は「『越谷型』青面金剛像庚申塔」であると述べている。(※2)
※2 秦野秀明「越谷型青面金剛像庚申塔」(http://koshigayahistory.org/762.pdf)2022年10月21日閲覧.
「越谷型」青面金剛像庚申塔の特徴は、①合掌している。②左上手でショケラと呼ばれる女人の髪をつかんでいる。③青面金剛に踏みつけられている邪気(じゃき)が正面を向いている。④享保19年(1734)以降の造立。⑤邪気の下の三猿は、中央の猿以外、左右の猿が正面を向いていない――の五つ。
「越谷型」青面金剛像庚申塔については、秦野氏が「越谷型青面金剛像庚申塔」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/762.pdf
地蔵菩薩立像
庚申塔の対面に立っているのは、丸彫りの地蔵菩薩立像。江戸中期・享保8年(1723)建立。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持っている。
蓮台(れんだい)の下の台石には文字が刻まれているが、劣化のために解読できない。「□□法師」の銘が、うっすらと読み取れる。
地蔵菩薩立像には花が手向けられている。対面の青面金剛像庚申塔にも花や線香などが供えられていた。二基の石仏は、今も地元の人々に崇められている。
青面金剛の使い(?)が飛来
と、そのとき、アゲハチョウが舞い降りてきた。お~!青面金剛の使いか、と思いきや、どうもこのチョウはアカボシゴマダラという要注意外来生物らしい……。
境内の石仏
境内には四基の石仏と僧侶の墓塔が並べられている。
青面金剛像庚申塔
向かって左端は、江戸後期・寛政5年(1793)の青面金剛像庚申塔。正面に陽刻されているのは上から日月・青面金剛(六手剣人型)・邪気・二鶏・三猿。
陽気な三猿
三猿の姿がおもしろい。烏帽子(えぼし)をかぶって陽気に踊っている。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は「この三猿は猿曳(さるひき)の三番叟(さんばそう)を模す」(※3)と述べている。
※3 加藤幸一「大袋の地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)84頁
猿曳は猿回しのこと。三番叟は、ここでは三番猿楽(さんばさるがく)をさす。正月やめでたい節目(せつもく)で演じられた猿楽の祝福舞。こっけいな動作で庶民に親しまれた。
銘文
左側面には「奉建立庚申供養」、右側面には「寛政癸丑三月吉日」「武州埼玉郡岩槻領恩間邑」、台石には「講中」ほか、寄進者6人の名前が刻まれている。
不動明王座像
左から二番目は不動明王座像。江戸中期・明和3年(1766)造立。台石の上に不動明王が鎮座している。
不動明王と台石
不動明王のうしろには火焔(かえん)の光背。右手に剣(つるぎ)、左手に羂索(けんさく)を持っている(※4)。顔は憤怒(ふんぬ)の表情。台石には「新坂」「学善法子」「明和三丙戌二月六日」と刻まれている。
※4 不動明王が手にしている剣は、人々の煩悩や因縁を断ち切るため。羂索は、悪魔を縛りあげたり、苦しんでいる人を縛って吊しあげてでも煩悩から救いだすためのもの。
無縫塔
左から三番目は無縫塔(むほうとう)。僧侶の墓塔で、卵形をしていることから卵塔(らんとう)とも呼ばれる。無縫(むほう)とは縫い目がないこと。
劣化のために銘を読み取るのは難しい。かろうじて、梵字「ア」「教善法師」「明和」(めいわ)の文字が確認できる。明和は、江戸後期の元号。1764年から1772年まで。
聖徳太子像
左から四番目は聖徳太子像。石塔型式は笠付き角柱型。江戸後期・文政6年(1823)造立。
正面中央に、浮き彫りされた聖徳太子孝養像。台石の正面には「講中」(こうじゅう)の銘のほか、寄進者17人の名前が確認できる。
孝養像とは、太子が16歳のときに父・用明天皇の病気平癒を祈ったという説話をもとにその姿を表しているとされる像のこと。
越谷市郷土研究会の加藤氏は「孝養像は(聖徳太子が)16歳のときに父である用明天皇の病気平癒を祈る姿。柄香炉を執る姿に表される」(※5)と述べている。
※5 加藤幸一「大袋の地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)84頁
脇銘
左側面の脇銘は「文政六癸未年三月吉祥日」、右側面には「岩槻領恩間村」とある。この地(現在の越谷市恩間)は、江戸時代は岩槻領だった。
普門品供養塔
向かって右端は、観音像付き普門品(ふもんぼん)供養塔。江戸後期・文化5年(1808)年造立。石塔型式は隅丸型(すみまるがた)。
主尊は陽刻された正観音菩薩像。脇銘は「奉読誦普門品供養」「文化五戊辰三月十八日」。
法華経の「観世音菩薩普門品」の別称。観音経とも呼ばれる。観音経(普門品)を一定回数読誦(どくじゅ)した記念に建てたのが、普門品供養塔。
台石には「岩槻領恩間村講中」のほか、14人の名前が確認できることから、この石塔は恩間村の観音講中によって建てられたものと思われる。
補足|切削?剥落?
墓地内に、如意輪観音が真っ平らに削り取られたように見える墓塔があった。切削されたのか、剥落(はくらく)したものか。どちらか迷ったが、おそらく風化などによって、剥落したものと思われる。墓塔の前には花が供えられていた。
塀の外の石仏
境内のほかに、南側の塀の外に三基の石仏が並んでいる。
馬頭観音文字塔
向かって右端の石塔は、馬頭観音文字塔。石塔型式は駒型。江戸後期・天保4年(1833)造立。正面の主銘は「馬頭観世音」。脇銘に「天保四年己三月立□」と寄進者名(一名)が刻まれている。
馬頭観音菩薩像
真ん中の石塔は馬頭観音菩薩像。石塔型式は駒型。江戸後期・寛政9年(1797)。馬頭観音は六臂(ろっぴ=手が六本)の座像。頭に馬を戴き、顔は忿怒相(ふんぬそう)。胸元で馬口印(※6)を結んでいる。
※6 馬口印(まこういん)とは、人差し指と薬指を折り、ほかの指を立てる印相(いんぞう)のこと。忿怒相で六臂の姿は青面金剛と見間違われることがあるが、青面金剛は合掌、馬頭観音は馬口印なので、印相を見れば見分けられる。
台石正面の中央に「大悲馬頭観世音」。両脇に「寛政九丁巳十二月吉日」「岩附領恩間村」「願主」「世話人」のほか、3人の名前が確認できる。
地蔵菩薩像
向かって左端は地蔵菩薩像。年代は不詳。石塔型式は舟型。地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。この石塔は個人の墓塔。風化が進んで、ウメノキゴケ(※7)が、かなり付着しているので、年代や戒名などは読みとれない。
※7 ウメノキゴケ(梅の樹苔)…古い石仏によく見られる白いまだら模様。白いカビやセメントで補修したようにも見えるが藻類と菌類が共生している地衣類(ちいるい)の一種。コケの仲間でもない。梅や松の古木や岩などに着生する。大気汚染に弱いので、その指標に利用されたりもする。
場所
勢至堂の住所は、埼玉県越谷市恩間1038( 地図 )。郵便番号は 343-0033。場所は、越谷市立大袋北小学校の西50メートル。間久里川緑道の起点から400メートルほど先のT字路を左折して50メートル。車を駐める場所はない。
参考文献
本記事を作成するにあたっては、石仏や石塔の金石文や年代などを確認するさいに、関係書籍や調査報告書とも照らし合わせた。参考にした文献を以下に記す。
加藤幸一「大袋の地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)