越谷市大沢にある真言宗の寺院・光明院(こうみょういん)。場所は北越谷駅の東200メートル。道路(足立越谷線)を挟んだ対面には大沢の鎮守・香取神社がある。開基年代はつまぴらかでないが、過去帳には、室町時代からの記帳が載っていたと伝えられている。境内の無縁塚には、江戸時代、大沢町の旅籠で心中した鍋島歌女輔(なべしまかめのすけ)の墓碑や越谷地域に生け花を広めた春暉庵一樹(しゅんきあんかずき)の供養墓石などがある。
歴史
光明院の正式名称は香取山光明院(かとりさんこうみょういん)。住所は越谷市大沢3-16-15。創建年代は不詳。江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』越ヶ谷領「大澤町」の項に、「宗派は新義真言宗。大沢町の鎮守・香取社(現在の大沢香取神社)の別当寺(※1)で、香取山と号し、本尊は十一面観音。薬師堂がある」と記されている。香取神社の別当寺(べっとうじ)であったころは寺勢も盛んだったことがうかがわれる。
※1 神社の境内に建てられ、寺務をつかさどる別当(べっとう)が居住し、読経・祭事・祈祷など神社の運営および管理を行なった寺。明治元年(1868)の神仏分離で廃絶。
標識塔|新四国第二十九番
山門をくぐった左手に「新四國第貳拾九番」(新四国第二十九番)と刻まれた明治29年(1896)3月建立の石碑がある。これは、光明院が、武蔵国(むさしのくに)新四国八十八箇所の第29番札所であることを示す霊場巡りの標識塔で、裏面には「薬師如来 光明院」とある。
武蔵国新四国八十八箇所は、東京都足立区にある西新井大師を一番札所として、草加市・越谷市・さいたま市・川口市・足立区を巡って、川口市安行の慈林寺を結願とする札所めぐりのこと。明治時代に「三郡送り大師」と呼ばれ、盛んに行なわれた。
無縁塚
山門をくぐった右手の石塀沿いには無縁仏の墓石が並べられた無縁塚がある。この中には、大沢町の世襲名主(町役人)と宿場役人の問屋役(※2)を代々務めた江沢家(※3)の墓石もあると言われているが、どの墓石が江沢家のものなのかは分からない。
※2 問屋(といや)とは、江戸時代、宿場を円滑に運営するために、宿役人が業務を行なった場所で、問屋場(といやば)ともいう。今でいう役所にあたる。宿場を通行する幕府の公用旅行者のために、人足・馬・宿の手配、幕府の書状(公用文書)や荷物を運ぶ飛脚の管理のほか、大名行列の出迎えなど、重要な役割をになっていた。問屋場の責任者を問屋役(といややく)といった。
※3 光明院は江沢家(えざわけ)の菩提寺である。『大沢町・越ヶ谷町の石仏』加藤幸一(平成13年度調査/平成31年7月改訂)に「江沢家は大沢町の名主と問屋(といや)の両方を代々勤めた家柄であった。江沢家の墓石は、現在は無縁仏の墓所の中にあるという。本堂に安置されている高さ約25センチの石像は、江沢家の墓所から手に入れたとされ、江沢氏の姿を刻んだのかもしれないといわれるが、今となっては真偽のほどはわからない。」とある。
無縁供養塔
無縁塚の中央には「無縁供養塔」と刻まれた供養塔が建っている。「無縁供養塔」の文字の上には梵字「ア」(※4)が刻まれている。
※4 梵字の「ア」は、真言宗の墓石に多く見られる。「ア」は、真言宗の本尊である大日如来(だいにちにょらい)を表わす梵字で、亡くなった人が、真言宗の信徒として大日如来の教えを受け、仏になったということを表わしている。
春暉庵一樹の墓碑
無縁供養塔の横に墓石が二基置かれているが、手前は、江戸後期の文化人で、越谷地域に生け花を広めた春暉庵一樹(しゅんきあんかずき)の墓石。江戸後期・享和2年(1802)に一樹の門人が建てたもの。正面には「春暉庵一樹之墓」と刻まれている。裏面は他の墓石が邪魔になって確認できない。以前は他の場所に置かれていたようだ。
『大沢町・越ヶ谷町の石仏』加藤幸一(平成13年度調査/平成31年7月改訂)には「裏面に刻まれた『享和二壬戌』の文字は確認できるが、そのほかの部分は摩耗が激しく、『おもい出の』『文化四』という文字だけが、かろうじて確認できる程度」とある。
春暉庵一樹と墓石について、『越谷市史 四(史料二)』越谷市役所(昭和47年3月30日発行)「大沢町古馬筥」おおさわまちこまばこ(P205)に、次のように記されている。以下引用。
遠州流生花の師と云。此一樹は日光道中幸手辺に居住せし者なりとぞ。然るに当町上組に髪結渡世にて俗名永蔵といふ者あり。此者右春暉庵之弟子にて春々庵一無といふ也。一樹年回之節此碑を建立す。(中略)今此辺のさし花、遠州流は皆是髪結永蔵の流なり。碑裏に「享和二戌二月、春暉庵門人、春々庵一無」と彫刻有。
引用元: 『越谷市史 四(史料二)』春暉庵之墓
要約すると「春暉庵一樹は、遠州流生花の師匠で、日光街道の幸手(現在の幸手市)に住んでいた。当町(大沢町)に髪結いで生計を立てていた永蔵(えいぞう)という者がいた。永蔵は一樹の弟子で、雅号(がごう)を春々庵一無(しゅんしゅんあんいちむ)といった。この地域の遠州流の華道は永蔵を流祖としている。この墓石は、一樹の命日に弟子の永蔵が建てたものである。碑面の裏には『享和二戌二月 春暉庵門人 春々庵一無』と刻まれている」ということになろうか。
鍋島歌女輔の心中供養墓碑
無縁塚の左隅に、ランドセルのような形をした石が、大きな石の上に積まれている。これは「鍋島歌女輔(なべしまかめのすけ)・松尾龍太郎(まつおりゅうたろう)」心中供養墓石。この朽ち果てかけている墓石には次のようないわれがある。
鍋島歌女輔心中事件
江戸時代、大沢宿(現・越谷市大沢)の旅籠に宿泊した鍋島歌女輔と松尾龍太郎と名のる若い二人づれの武士(歌女輔は男装した女性だった)が、お互いに刀でさしちがえて死んだ。女(歌女輔)は鍋島藩(※5)有馬家の姫君で、松尾という家臣と駆け落ちしたらしいとの噂が宿場中に広まった(鍋島藩の江戸屋敷は否定した)。当時、駆け落ちは「ごはっと」で重い罪だった。
※5 佐賀藩(さがはん)のこと。現在の佐賀県・長崎県の一部にあたる。鍋島家が藩主だったことから鍋島藩と呼ばれている。肥前国佐賀郡にあったので肥前藩(ひぜんはん)とも呼ばれる。
引き取り手のない二人を哀れに思った宿の主人が、二人を手厚く葬って供養の墓石を立てた。この墓石がそのときのもの。墓石も二つに割れてしまって無縁仏群の片隅に置かれている。風化が激しく、戒名や年号は読みとれない。
昭和58年(1983)8月1日号「広報こしがや」(越谷のれきし)に「(この墓石は)だいぶ傷んでいて、年号はもちろん戒名なども読みとれません。わずかに『俗名鍋島歌女輔・松尾龍太郎』とうっすら読みとれるだけです」とある。
「鍋島」と「松」の文字がなんとか読みとれる
今では「鍋島」という文字と「松」らしき文字がなんとか読みとれる程度。
墓石は二つに割れてしまったが
供養墓石は二つに割れてしまったが、二人はあの世で結ばれたのだろうか……。
念仏供養塔|地蔵菩薩
無縁塚の右から五列目、奥から三番目にある地蔵菩薩が陽刻されている石塔は、念仏供養塔。江戸前期・寛文10年(1670)造立。石塔の型式は舟後光型(ふなごこうがた)。地蔵菩薩像の左側に「為念仏供養施主五拾人」、右側に「寛文拾庚戌天十一月十日」と刻まれている。
塩地蔵
本堂に向かって左手に木小屋がある。中に安置されている六地蔵の隣に、異様な形の石像と石地蔵が並んでいる。異様な形の石像は「塩かけ地蔵」。霊験あらたかな塩地蔵と呼ばれ、願いがかなうと頭から塩をかけかられたので、塩によって石がとけてこのような形になってしまった。
塩かけ地蔵
『越谷市史 四(史料二)』越谷市役所(昭和47年3月30日)「大沢町古馬筥」(※6)「光明院境内塩地蔵之事」の項に、「光明院境内薬師堂の前に地蔵尊の石像あり。年古くありて年暦不分。塩地蔵と唱ひ願望成就の者より塩を奉納する事、むかしに不替今に不絶参詣ありて感応ありしといふ。尊像の形体(けいたい)塩の為に全体なし。地蔵の前に石の燈籠あり。元禄年中の建立なり」とある。すでに江戸中期には塩かけ地蔵の形が分からなくなっていたようだ。
※6 「大沢町古馬筥」(おおさわまちこまばこ)は、江戸後期・天保11年(1840)ごろに書かれた越谷の地誌。編さん者は、大沢の世襲名主・江沢太郎兵衛(追号は江沢照融=えざわしょうゆう=)。大沢町を中心に越谷に関するさまざまな言い伝えや古老の話、古文書など多種多様な事歴や当時の出来事が収録されている。
新旧塩かけ地蔵
平成30年(2018)に新しい塩かけ地蔵が建立され、現在は、新旧二尊の塩地蔵が並んでいる。
交通案内
住所は埼玉県大沢3-16-15( 地図 )。郵便番号は 343-0025 。最寄駅は東武伊勢崎線の北越谷駅。北越谷駅東口から徒歩約2分。行き方は、東口ロータリーを直進。二つ目の信号を右折して足立越谷線(県道49号線)を150メートルほど進んだ左側。「大沢三丁目」信号が目安。道路の対面には香取神社がある。駐車場は山門をくぐった境内に三台ほど駐められるスペースがある。