2022年10月11日。「家康と鷹狩と御殿」と題し、越谷市北越谷地区センターで「歴史探訪講座」が開かれた。話し手はNPO法人越谷市郷土研究会の宮川進氏。鷹狩り好きの家康は越谷に建てた自分専用の御殿がお気に入りだった。

はじめに

本記事は、話し手を務めたNPO法人越谷市郷土研究会・宮川進氏の講話内容を抜粋し、当日の雰囲気が伝わるよう、話し言葉にして綴ったものである。あくまでも要約なので、宮川氏が話した言葉を一字一句忠実に再現しているわけではない。

家康と鷹狩と御殿

レジュメ

宮川進氏

みなさんこんにちは。宮川です。このたびは「歴史探訪講座」ということで、徳川家康と越谷について、4回に分けてお話をさせていただいております。2回目の今日は「鷹狩りが好きだった家康は越谷に建てた自分専用の御殿がお気に入りだった」という話をします。

  1. 家康の鷹狩は趣味と実益を兼ねた
  2. 鷹狩の歴史
  3. 家康と鷹狩
  4. 越ヶ谷御殿の場所
  5. 家康と次代将軍たちの越ヶ谷御殿
  6. 余談|家康と鷹狩

それではさっそく本題に入らせていただきます。

家康の鷹狩は趣味と実益を兼ねた

家康はけっこう多趣味でして、猿楽や囲碁、将棋、華道、茶の湯などを楽しんでいたといわれますが、いつばんの楽しみはやはり「鷹狩」だったようです。
 

宮川進氏

それは、家康みずから領地をまわって、家臣団や在地の土豪の掌握、民心の掌握をはかることでもあり、まさに趣味と実益を兼ね、そのうえ、健康法にもなりました。


実際、家康は、越谷でも代官の不正を訴えた農民と代官を直接対決させて裁判を行ない、その訴えが根拠のないものと判明し、農民六名を処罰さました。鴻巣でも同様の裁きを行ない、忍藩(おしはん=現在の行田市)では、代官を免職する裁きを行なったりしているのです。

鷹狩の歴史と地域

続いて、鷹狩の歴史について少々お話をいたします。

宮川進氏

日本では、4世紀までさかのぼりまして、仁徳天皇のころ、大陸から鷹が輸入され、貴族の遊びとして親しまれておりました。その後、武家の人たちの娯楽になったようです。


世界では、紀元前8世紀に、現在のイラク北部にあたるアッシリアの浮き彫りに残っているものが最古の鷹狩の記録とされています。
 
日本においても世界においても、どちらも鷹狩は権力者と結びついて、庶民の楽しみではなかったのですが、鷹という鳥、そして鷹匠(たかしょう)など、現実に鷹を扱う人たちがいたせいか、けっして庶民から離れた存在ではなかったというのも、なにかうれしく思います。

鷹狩の地域

北米や南アフリカの鷹狩は、ヨーロッパから持ち込まれした。他の地域は、古来から鷹狩が行なわれていたようです。今、アメリカでは空港周辺で、鳥が飛行機に衝突して死亡する事故、バードストライクと呼ばれていますが、それを防ぐために鷹が使われ、イギリス海軍でも海鳥を追い払いために鷹が使われているとのことです。

家康と鷹狩

徳川家康公像(浄山寺)

徳川家康公像(浄山寺)

さて、家康の前の時代をつくった信長や秀吉も鷹狩を好んだといわれます。そして、家康もいちばんの楽しみが鷹狩でした。
 
幼いころに人質として敵の城に閉じ込められた鬱屈(うっくつ)を体験した家康にとって、自由に山野(さんや)を駆け巡る喜びは、ほかの人の何倍も強く感じられたのではないでしょうか。

宮川進氏

越谷は、鷹狩で野鳥がよく捕れたところで、思う存分自由を満喫できたので、他の場所よりも家康は越谷を愛したのではないかと私は思います。