2022年3月27日・日曜日。越谷市観光協会主催の街歩きイベント「観光ぶらっとこしがや」に参加した。今回のテーマは「桜ハイキング」。見ごろを迎えた北越谷元荒川堤の桜を愛でながら周辺の観光スポットを約2時間かけて巡った。
観光ぶらっとこしがや|2022年3月27日
今回、ボクが参加したのは「観光ぶらっとこしがや~桜ハイキング」。集合場所は越谷駅東口・ガーヤちゃんの蔵屋敷前。主な見学先は◇大野邸◇十王堂◇迎摂院◇会田家歴代の墓所◇北越谷元荒川堤◇出津橋◇浄光寺――など。
受付
午前9時15分。受付で名前を確認。参加費300円を払って、班名が書かれた名札と資料をいただいた。
参加者は50人。4班に分かれ、各班ごとにガイドさんとアシスタントが付いた。ボクは1班。案内役をつとめるのは越谷市観光協会のボランティアガイドのみなさん。それに越谷市観光協会の高橋さんが随行。
前回の観光ぶらっとこしがやが初仕事だった高橋さん、今回は成長ぶりを発揮できるか。
前回は初心者マークの高橋でしたが、今回はおまかせください。成長ぶりをお見せします。
越ヶ谷駅の由来
班ごとに分かれて人数の確認。1班の案内役は河内(かわうち)さんと栗田さん。あいさつ代わりに栗田さんが越谷駅の由来について話をしてくれた。
越谷駅(当時は越ヶ谷駅)が開設したのは、明治32年(1899年)。当時は、現在の「北越谷駅」が「越ヶ谷駅」だった。その後、越ヶ谷町全体の熱心な駅誘致運動が行なわれ、大正9年(1920年)、現在の場所に越ヶ谷駅が開業された。
新駅開業にあたって、駅の設置費用は全額越ヶ谷町が負担しました。当時の金額で 1万6,000円、現在の金額に換算すると 1,920万円になります。
大正9年(1920年)、新・越ヶ谷駅開設に伴い、それまでの越ヶ谷駅(現在の北越谷駅)は、武州大沢駅(ぶしゅうおおさわえき)と改称した。
出発
本日の行程と注意事項が説明されたあと、9時30分、出発進行~!
赤山街道
越谷駅前交番の横から東武線のガード下を進むと道路にぶつかる。左右に延びる道は赤山街道(あかやまかいどう)。江戸時代、赤山(現・川口市赤山)にあった陣屋まで年貢を運ぶ街道として整備された。
ここ(信号)を右に行くと越谷市役所の通りに出ますが、江戸時代、市役所の裏手には、処刑場があったんですよ。
移動|越谷市中町
信号を渡って、東武伊勢崎線(上り線側)ガード下の道を北に進む。このあたりの住所は越谷市中町。朝日バス「越ヶ谷小学校前」バス停を通過。信号を渡って左へ。ガード下をくぐって右折。
移動|越谷市宮本町
東武伊勢崎線(下り線側)ガード下の道を元荒川に向かって進む。こちら側の住所は越谷市宮本町になる。セブンイレブン越谷宮本町1丁目店を通過。
大野邸
大野邸に到着。旧・四丁野村(しちょうのむら)の名主をつとめた旧家。江戸時代は材木屋を営み、目の前を流れる元荒川に舟を浮かべ、材木を江戸に運んで財をなした。
明治33年(1900年)、6月5日から8日まで、江戸幕府最後の将軍でもあった徳川慶喜(よしのぶ)が、鷹狩りのために大野家に宿泊している(6日と7日は春日部に泊まった)
このときの慶喜からの心付け、当時はお茶料と言いましたが、三人で泊まって20円だったそうです。今のお金にすると20万円。20円のうち5円(約5万円)が仲居さんへの心付けだったという話が残っています。
由緒碑
大野邸の隣にあるマンションの角地(このマンションは旧・大野家の屋敷跡)に、大野家の由緒と、明治から昭和にかけて、大野家に逗留した皇族(徳川慶喜ほか五人)の名前が刻まれている由緒碑がある。
由緒碑に刻まれている皇族の名前を案内役の河内さんが読みあげてくれた。
越谷流山線(県道52号線)の信号を渡って元荒川右岸側へ
庚申塔と水神塔
信号の脇に小さな祠があり、二基の石仏が安置されている。もとは大野家の敷地内にあった。向かって左側は、青面金剛(しょうめんこんごう)が浮き彫りされた庚申塔。年代は不詳。右側は「水神宮・弁財天」と刻まれた江戸後期・文政7年(1824)の文字塔。
元荒川の舟運が栄えていた時代、このあたりに河岸場がありました。
元荒川緑道
元荒川右岸沿いの元荒川緑道を上流(神明橋)に向かって歩く。対岸は北越谷元荒川堤の桜並木。開花状況は三分咲きから五分咲きといったところか。
なお現在の元荒川の桜並木は、昭和31年(1956)に、さきほど訪れた大野家の当主をはじめ三人の名士によって寄贈されたソメイヨシノの桜苗1,200本を植樹して、整備されたもの。
ソメイヨシノの由来
案内役の河内さんがソメイヨシノの名前の由来について解説してくれた。
「ソメイヨシノ(染井吉野)は、江戸時代末期に、染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木職人が、江戸彼岸桜(エドヒガンザクラ)と大島桜(オオシマザクラ)をかけあわせて作った桜の品種です」
当時は、桜で有名な奈良県の吉野山にちなんで吉野桜(ヨシノザクラ)と呼ばれていましたが、明治33年(1900年)に、染井吉野(ソメイヨシノ)と名前を変えたところ、爆発的に人気が広まりました。
高橋です、今そちらはどのへんですか?
越谷市観光協会の高橋さん、各班の進行状況を電話で確認しております。今回は4班あるので、班ごとの状況も随時、把握しておく必要があるようです。今回が二回目とは思えないほどテキパキした仕事ぶりですね~
四丁野通り
元荒川緑道から越谷流山線に出る。横断歩道を渡って四丁野通り(しちょうのどおり)を南へ進む。現在、このあたりの住所は宮本町だが、かつては四丁野村と呼ばれた。四丁野通りの名前は当時の村の名に由来する。
四丁野を150メートルほど歩くと次の見学先である十王堂が見えてきた。