2022年9月27日。越谷市北越谷地区センターで「歴史探訪講座」(同センター主催)が行なわれた(全4回)。話し手は、NPO法人越谷市郷土研究会の宮川進氏。一回目のテーマは「徳川家康と越谷」。家康が日光街道をつくってくれたおかげて今の越谷がある―。

はじめに

本記事は、話し手を務めたNPO法人越谷市郷土研究会・宮川進氏の講話内容を抜粋し、当日の雰囲気が伝わるよう、話し言葉にして綴ったものである。あくまでも要約なので、宮川氏が話した言葉を一字一句忠実に再現しているわけではない。

徳川家康と越谷

レジュメ

宮川進氏

みなさんこんにちは。宮川です。このたびは「歴史探訪講座」の中で、徳川家康と越谷について、4回に分けてお話をさせていただきます。一回目の今日は、家康が日光街道の設計図を越谷に引いてくれたおかげで今の越谷がある、ということを六つに分けてお話しさせていだきます。

  1. 越谷という名前について
  2. 日光街道に越ヶ谷宿を置いたのはなぜ?
  3. 合宿と立場
  4. 日光街道の脇街道
  5. 日光街道あれこれ
  6. 家康が越谷に残してくれたもの

越谷という名前について

最初に「こしがや」(越谷あるいは越ヶ谷)という地名について、お話しします。
 
古文書に残ってるもっとも古いものは、戦国時代までさかのぼりまして、永禄5年(1561)、北条氏康が配下の本田氏あてに出した印判状(いんばんじょう)といわれています。これには「越谷」という郷名(ごうめい)が書かれています。

家康が交付した朱印状

迎摂院「寺領寄進朱印状」説明板

迎摂院「寺領寄進朱印状」説明板(越谷市宮本町)

そのあとは、30年後の安土桃山時代、天正19年(1591)に、徳川家康が瓦曽根の照蓮院にあてた寺領寄進状、朱印状とも申しますが、そこに「腰谷瓦曽根」と書かれています。
 
今の宮本町にあたる四町野(しちょう)の迎摂院(こうしょういん)にあてた朱印状(※1)には「越ヶ谷郷」(こしがやごう)とあり、越ヶ谷の天嶽寺にも「越ヶ谷郷」と書かれた朱印状が残っております。

※1 迎摂院に残されている家康から交付された朱印状は全12通。越谷市内では最多。「寺領寄進朱印状」の名で、越谷市の有形文化財(古文書)に指定されている。上の写真は迎摂院の「寺領寄進朱印状」説明板。

この「越ヶ谷郷」には、登戸から袋山という広い地域が含まれていたようで、行政の単位ではなく、所領の単位を示すだけのものと考えられています。

郷から宿場へ

越谷は、日光街道が「できた」ときに新しくつくられた集落と思われます。宿場の名前を付けるときに、それまで「越ヶ谷郷」(こしがやごう)と呼ばれていた郷名(ごうめい)をとって「越ヶ谷宿」(こしがやじゅく)と、したようです。

宮川進氏

家康が江戸幕府をつくり、全国を結ぶ交通網として五街道(※2)をつくったから、そして日光街道に越ヶ谷宿を置いたから、「越谷」ができたのです。

※2 五街道…江戸時代、日本橋を起点とした五つの主要街道。東海道・中山(なかせん)道・日光街道・甲州街道・奥州街道をいう。幕府の道中奉行が管理した。

日光街道に越ヶ谷宿を置いたのはなぜ?

木下半助商店(旧日光街道・越ヶ谷宿)

木下半助商店(旧日光街道・越ヶ谷宿)

続きまして、どうして日光街道は越谷を通るようにつくられたのか、という話をいたします。

宮川進氏

日光街道は五街道のなかでも小さくて短い街道のようなイメージがありますが、じつはそうではありません。


江戸時代の街道の華(はな)であった大名行列では、東海道を通行する大名は148家、そして日光街道と奥州街道を通った大名は合計で40家、中山道は30家、甲州街道は3家というように、日光街道は堂々二位の位置にあったのです。

日光街道ができる前のルート

この日光街道(奥州街道)ができる前、人々はどのようなルートで日光や奥州に出かけたのでしょうか。
 
そのころは公道はありませんでしたから、じゅうぶんな道幅もなく、宿場というものも、旅籠(はたご)や茶屋もなかったでしょうが、なんらかの道はあったのでしょう。
 
その道は主に川の自然堤防を利用したものであっただろうと言われています。自然堤防なら見晴しはいいし、川の上流をたどることはラクですが、いつもまっすぐにはいかないのが大きな欠点。

宮川進氏

行きたいところの逆へ歩かなければならないこともあり、新しい道路をつくるには、この古道(川の自然堤防)をベースとすることはできません。

鷹狩りが役に立った

徳川家康公尊像(浄山寺・越谷市野島)

鷹狩り装束姿の徳川家康公尊像(浄山寺・越谷市野島)

日光街道と五街道の道筋を考えなければならなくなった家康さん、なにかベースとなるルートはあるのでしょうか? 部下たちも困ったことでしょう。しかし、家康さんは決めました。越谷へは鷹狩りによく来てたから「日光街道のベースは俺が知ってるよ」と。
 
家康さんのいちばんの趣味だった鷹狩りが役に立ったのです。河川の流れを参考にし自然堤防の利を生かせるところは生かして、ほぼまっすぐな設計図が引けました。

問題は草加・越谷

問題は、草加・越谷周辺でした。いまでこそ少なくなりましたが、以前は、草加と越谷は、かなり水害が多い地域だったこと。たとえば、家康没後、二代目将軍・秀忠がはじめて行なった日光社参のとき、千住・草加間で風雨のために13名の死者が出たというくらいです。

日光御成道

なぜ、現在の日光御成道(にっこうおなりみち)のように、本郷・岩淵・川口・大門・岩槻……と、大宮台地の上を通るルートにしなかったのでしょう。

日光街道

そのほうがどう考えても安全なコースなのに、家康はなぜ草加・越谷ルートをとったのでしょうか。わたしはそこに家康の越谷に対する「愛」を感じるのです。

家康の越谷愛

徳川家康公垢付の御夜具

徳川家康公垢付の御夜具(大聖寺所蔵)※禁無断転載

秀吉から関東への配置換えを命じられてから、家康はさっそく、武蔵国(むさしのくに)での鷹狩りを始めました。当時は自前の宿舎もない状態ですから、越谷では大聖寺(だいしょうじ)に泊まらせてもらい、鷹狩りをしたのです。

宮川進氏

そうしてつくりあげられた家康の「越谷愛」が、日光街道の設計図を引くときに、越谷経由にしてくれた、わたしはそう思っています。


家康はその後、たとえば慶長18年(1613)には、越谷には 4回も鷹狩りに来てくれましたが、次に多い忍や葛西は 2回ですので、群を抜いて家康は越谷が好きだった、という証明になるでしょう。ここにも家康が日光街道を越谷に引っ張ってきてくれた気持ちが見えるのです。