残しておきたい越谷の風景を写真とともに紹介する。今回は、朝日バス「神明下」バス停裏手の元荒川右岸堤にある庚申塔などの石塔。近い将来、河川敷の整備に伴い撤去または廃棄されてしまうかもしれない。
神明下の石塔
越谷流山線(埼玉県道・千葉県道52号)沿いの朝日バス「神明下」停留所から元荒川右岸土手に下りて、40メートルほど上流に向かって堤を歩くと、数基の石塔がぽつんと並んでいる。
この石塔は、以前は神明橋のたもとの土手に置かれていたが、元荒川右岸側の緑道を整備するさいに、ここに移された。もともとは、神明橋西詰付近に鎮座していた旧・神明下村の鎮守・神明社の境内地に置かれていた。
神明社
神明社は昭和45年(1970)、神明橋の架橋工事のさいに、北越谷停車場線(埼玉県道405号)沿いに移されたが、平成11年(1999)、現在地である越谷市神明町二丁目に移転した。上の写真は現在の神明社。
40年前の風景描写
神明橋下の庚申塔と石塔:昭和54年(※1a)
昭和54年(1979)に発行された『越谷ふるさと散歩(上)』(※1b)に、この石塔(神明橋下の石塔)が、写真とともに紹介されている(以下、引用)
神明橋の袂(たもと)の堤に数基の石塔が置かれている。神明橋架橋の際当所に片付けられたものだが、このあたりがもと神明下村の鎮守神明社地であったようである。現在神明社の祠は県道越谷浦和線の傍らに移されている。なお堤下の石塔は明和五年(一七六八)の西国坂東秩父観音巡礼の供養塔、天保十年(一八三九)の猿田彦大神塔、年代不明の庚申塔などであり、これらはもと神明社の境内に置かれていたものだろう。
引用元: 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)pp.118-119.
※1a 出典は越谷市デジタルアーカイブ(資料名:神明下・神明橋下の庚申塔 石塔)
※1b 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「大房浄光寺」118頁・119頁
石塔の新旧写真
石塔群の新旧写真(※2)
上の画像の白黒写真は昭和54年(1979年)4月に撮影された石塔群(※2)。その下の2枚のカラー写真は、私が撮ったもの。撮影年月日は令和4年(2022年)10月21日。
元荒川の流路は43年前に撮られた風景とほとんど変わっていない。
上の白黒写真は、神明橋西詰の下にあった当時の石塔。当時、石塔は元荒川に背を向けて並べられていた。下のカラー写真は、神明橋西詰から上流80メートル先に移された現在の石塔。石塔は土手に背を向け、元荒川に正面を向けて並べられている。
43年前は石塔が3基と石塔の笠の部分が1基だったが、今は、3基あった石塔のうち 1基は崩れてしまって、2基の石塔と、崩れた1基、それと石塔の笠の部分が残っている。
この場所も、やがては河川敷や土手道が遊歩道として整備され、それに伴い石塔も撤去または廃棄されてしまうのかもしれない。残しておきたい越谷の風景のひとつである。
※2 出典は越谷市デジタルアーカイブ(資料名:神明下・神明橋下の庚申塔 石塔)
石塔の解説
石塔は崩れてしまったものを含めて全部で4基。向かって左から順番に見ていく。
文字庚申塔
向かって左端は文字庚申塔。石塔型式は兜巾(ときん)型。年代不詳。
正面に「□申塔」と刻まれている。□の部分は「庚」で、刻まれている文字は「庚申塔」だが、「庚」の上部が剥がれてしまって、下の「大」の部分しか残っていない。「□申塔」以外の文字や彫物は確認できない。
加藤(2003)「出羽地区の石仏」(※3)では、この庚申塔の正面に「日月」の彫り物と「庚申塔」の文字が確認されているので、平成15年(2003)以降、劣化がさらに進んで、石塔の上部が剥がれてしまったと思われる。
※3 「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵「神明下土手」の項、46頁
側面
側面も損傷が激しく文字は読みとれない。
加藤(2003)「出羽地区の石仏」(※3)でも「損傷が激しく、表面が剥がれ、文字不明」とある。越谷市史編さん室(1979)『越谷ふるさと散歩(上)』(※4)にも「年代不明」と書かれているので、昭和54年(1979)には、すでに劣化がかなり進んでいたと思われる。
※3 「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵「神明下土手」の項、46頁
※4 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「大房浄光寺」の項、119頁
三猿
台石の正面に刻まれている三猿は、石塔部分と比べると、損傷や劣化はそれほどひどくない。浮き彫りされた三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の姿が、はっきり確認できる。真ん中の聞か猿は正面を向いているが、両端の言わ猿と見猿は互いに背中を向けて座っている。
言わ猿
左手で口を押さえている言わ猿。
聞か猿
両手で耳をふさいでいる聞か猿は正面を向いている。股間に注目。この猿は雄。雌の猿が描かれている庚申塔もある。
見猿
右手で目を覆っている見猿。
猿田彦大神文字塔
二つに割れている石塔は「猿田彦大神」文字塔。「猿田彦」と刻まれた上部と、「大神」と刻まれた下部とが別々になってしまっている。下部は台石に載ったままの状態。割れた箇所を修復したあとが見られるが、再び割れてしまったのだろう。
43年前の写真
43年前の猿田彦大神文字塔(※5)
上の白黒写真は、昭和54年(1979年)4月に撮影された庚申塔と石塔(※5)。黄色い○印で囲んだ石塔が、猿田彦大神文字塔。当時はまだ割れていない。
※5 出典は越谷デジタルアーカイブ(資料名:神明下・神明橋下の庚申塔 石塔)
加藤(2003)「出羽地区の石仏」(※6)では、二つに割れた猿田彦大神文字塔のスケッチが描かれているので、この猿田彦大神文字塔は、昭和54年(1979)から平成15年(2003)の間に割れてしまったと思われる。
※6 「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵、12頁
上部|猿田彦の文字
割れた上部には「猿田彦」(さるたびこ)の文字が刻まれている。石塔型式は角型。
加藤(2003)「出羽地区の石仏」(※7)によると、右側面に「天保十五歳□」「十一月吉□」の文字が刻まれている、とあるので、造立は江戸後期・天保15年(1844)。現在の状態では、左側面の銘は確認できない。
※7 「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵、12頁
下部|大神の文字
下部には「大神」(おおかみ)の文字が刻まれている。「猿田彦大神」と刻まれたこの文字塔は庚申塔と思われる。
疱神文字塔
笠の部分だけが残っている年代不詳の文字塔。もともとは祠型の石塔だったと思われる。笠の正面に「疱神」(※8)と刻まれている。
※8 疱神(もがさがみ)……疱瘡神(ほうそうがみ)のこと。天然痘をつかさどる疫病神。「いもがみ」「かさがみ」などとも呼ばれる。「もがさ」は痘瘡(とうそう=天然痘)の古名。
43年前の写真
43年前の疱神文字塔(※9)
上の白黒写真は、昭和54年(1979年)4月に撮影された庚申塔と石塔(※9)。黄色い○印で囲んだ石塔が疱神文字塔。当時すでに笠の部分しか残っていなかったことがわかる。
※9 出典は越谷デジタルアーカイブ(資料名:神明下・神明橋下の庚申塔 石塔)
笠
こちら(上の写真)は現在の笠。43年前と変わらず。劣化も進んでいない。当時と同じように笠は台石の上に載せられている。
台石
台石には寄進者と思われる8人の名前が刻まれている。台石と上に載っている笠(石塔)は同じものかどうかはわからない。現地調査した越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は「台石と笠とは本来別物ではないだろうか」(※10)と述べている。
※10 「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵「『疱神』文字塔」49頁
道標付き百箇所巡礼塔
道しるべを兼ねた百箇所巡礼塔。石塔型式は駒型。江戸中期・明和5年(1786)造立。
観音菩薩立像
石塔の上に蓮の花をもった観音菩薩立像が陽刻されている。
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏が、2003年に現地調査したときのスケッチには、蓮の花をもった観音菩薩立像が描かれているが(※11)、現在は、風化と劣化のために下半身の部分しか残っていない。
※11 「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵「道標付き百観音巡礼塔」10頁
正面|巡礼供養
石塔正面の主銘は「奉供養 西国 坂東 秩父 二世安楽所」、脇銘は「明和五戊子」「三月吉祥日」と刻まれている。
この石塔は、百観音(ひゃくかんのん)巡礼を終えた記念に建てられた供養塔。百観音巡礼とは、西国(さいごく)三十三所・坂東三十三箇所・秩父三十四箇所、合計100箇所の観音菩薩を本尊とする寺院(日本百観音)を巡ること。
左側面|道しるべ
左側面には「岩槻慈恩寺道」の銘と、寄進者の名前が刻まれている。風化が進んで「慈恩」の文字しか目視では確認できなかった。
右側面|道しるべ
右側面には「□しがやみち」(□は「こ」で「こしがやみち」と思われる)と、5人の名前が刻まれている。ほかの文字は目視では確認できなかった。
左側面と右側面の銘については、「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵「道標付き百観音巡礼塔」46頁に従った。
その他
そのほか、「奉」と刻まれた石塔の一部も置かれていたが、他の石塔との関連性はないように思われる。年代も主銘も不明。写真に撮って記録として残すだけにとどめる。
残しておきたい風景写真
神明下・元荒川右岸堤の石塔を写真に収めた。撮影年月日は2022年10月20日21日・11月15日。将来、元荒川河川敷の拡張工事によって、石塔が破棄され、土手道の風景が変わってしまったとしても、この場所に、水と緑が豊かな河原の原風景があったことを残しておきたい。そんな思いでシャッターを切った。
場所
神明下・元荒川右岸堤の石塔の場所は、越谷流山線(埼玉県道・千葉県道52号)沿いの朝日バス「神明下」バス停・標識の裏手から土手に下りて、40メートルほど上流に向かった土手にある( 地図 )。神明橋西詰からはおよそ80メートル上流。
参考文献
本記事を作成するにあたっては、引用した箇所がある場合は、文中に引用文献を記した。参考にした書籍および調査報告書を以下に記す。
加藤幸一「出羽地区の石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典』(第二版)雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)