2022年10月10日。越谷市越ヶ谷本町のこうじや音楽館で、旧日光街道越ヶ谷宿を考える会主催のお話会が行なわれた。話し手は、NPO法人越谷市郷土研究会の宮川進氏。「家康と越谷・お話いろいろ」と題し、家康は越谷が大好きだった、という話を語ってくれた。
はじめに
本記事は、1時間半にわたって行なわれた宮川進氏の講話内容を抜粋し、当日の雰囲気が伝わるよう、話し言葉にして綴ったものである。あくまでも要約なので、宮川氏が話した言葉を一字一句忠実に再現しているわけではない。
家康と越谷・お話いろいろ
みなさんこんにちは。宮川です。今日は家康と越谷について、いろいろとお話をさせていただきたいと思います。
徳川家康と越谷って、どういう関係があるの? たいした関係なんてないんでしょ? 三河や駿河や江戸からは遠い越谷なんだから……。ところが、そうじゃないんです。越谷は、家康によってつくられたといっても過言ではないんです。
越谷は、江戸時代のはじめ、家康が五街道(※1)のひとつとして、日光街道の設計図を引いたところから始まりました。
※1 五街道…江戸時代、日本橋を起点とした五つの主要街道。東海道・中山(なかせん)道・日光街道・甲州街道・奥州街道をいう。幕府の道中奉行が管理した。
越谷を流れる二大河川を整備してくれた
家康が江戸に幕府を開く以前、越谷は、利根川と荒川の二つの大河がそろって江戸湾へ流れ込んでいく通り道でした。しかも利根川も荒川も好き勝手な流れをしていましたので、江戸を洪水から守るためにも、農地を増やして米を量産するためにも、対策を立てる必要がありました。
そこで家康は、関東平野での食料増産と洪水予防の観点から、利根川は銚子のほうへ流し、荒川は入間川のほうへ流すという流路変更を行ない、二つの川の勝手な流れを修正しました。
それだけではありません。当時、越谷を流れていた荒川は、ふたつの大きな曲流をつくっていました。ひとつは袋山地区の曲流、もうひとつは花田地区の曲流です。家康は、それぞれの曲流の端と端をつないで、まっすぐな流れに替えました。
これによって越谷での水害の発生が著しく減少したのです。
越ヶ谷宿をつくってくれた
越ヶ谷宿で現存する建物としては最古の会田金物店
家康が、利根川と荒川の流路変更を実行しながら、そのうえでやってくれたのは、新しい日光街道を、現存の街道の位置に引いてくれたことです。
それまでは、越谷といいますと、大河川のそばにかろうじて存在するだけの集落で、名前も広い意味の「越谷郷」(こしがやごう)でした。
ところが、家康が日光街道をつくって、越ヶ谷宿を置いてくれたことで、「日光街道越ヶ谷宿」の名前を晴れていただけることになったのです。
お手元の資料の二つの地図を見てください。
日光御成街道
上の地図は「日光御成街道」(にっこうおなりかいどう)といって、将軍が江戸から日光に葬られたご先祖・家康をお参りするための街道です。これは荒川を越え、川口、鳩ヶ谷、岩槻と、大宮台地の上につくられています。
日光街道
こちら(上の地図)は日光街道で、千住、草加、越谷と、利根川、荒川、綾瀬川が流れていた河川流域を縦断するルートです。
二つの地図を比べてみれば、一目瞭然、本来ならば、大宮台地上の日光御成街道を選ぶはずです。ところが家康は、日光御成街道のルートを選ばずに、越谷を通る「いまの日光街道」ルートを選んでくれました。
それはなぜでしょうか?
家康は越谷が大好きだった
家康は、江戸幕府が成立する前から、大好きな鷹狩りに来た越谷を通って、他人よりも土地勘があるルートのほうを選んだのではないでしょうか。
そして、その道(日光街道)に越ヶ谷宿を置き、大好きだった鷹狩りを越谷でするために、越ヶ谷御殿(こしがやごてん)を造ったのだと私は思います。
家康は越谷が大好きだった。私はそう思いたいのですが、みなさんは、いかがでしょうか?
家康が越谷好きだった物的証拠
徳川家康公垢付の御夜具(大聖寺所蔵)※禁無断転載
もうひとつ、家康が越谷を好きだったという物的証拠のお話をします。
それは、相模町の大聖寺(だいしょうじ)に保管されている家康の夜具(やぐ)です。鷹狩りに来た家康をお泊めしたお礼に家康が残した夜具、寝るときに着る衣装ですね、垢つきの夜具(※2)ともいわれております。
※2 この夜具は、「徳川家康公垢付の御夜具」(とくがわいえやすこうあかつきのおやぐ)の名で、越谷市の有形文化財・歴史資料に指定されている。
当時はまだ専用別荘がなかった家康は、鷹狩りのために、あちらこちらの寺社を借りたと思われますが、お礼品をいただいたところは、越谷以外には話を聞きません。
越谷にだけ残された「夜具」に、家康の、越谷への思いが象徴さていると思えます。
続いて、鷹狩りが好きだった家康は越谷に御殿まで造った、という話をします。
越ヶ谷御殿
越ヶ谷御殿跡
家康が江戸に幕府を開いた 6年後、慶長9年(1604)に、鷹狩りをするときに休憩したり泊まったりするための御殿を越谷に造りました。場所は今の御殿町一帯といわれております。
家康の御殿は全国に30近くありますが、家康は、なかでも越ヶ谷御殿をとくに気に入っていました。
たとえば、慶長18年(1613)の11月には七日間にわたって滞在し、19羽の鶴を捕えることができてご機嫌だったようですし、慶長20年(1615)5月には、大坂夏の陣で勝利したあと、11月には、六日間、滞在した記録が残っております。
家康はその翌年、元和(げんな)2年に、残念ながら生涯を閉じました。
獲物の鶴を朝廷に献上
また、家康は、鷹狩りの獲物として捕えた鶴を朝廷に献上した、との記録も残っています。内臓をとって、塩を詰めて昼夜兼行で、京都まで送りました。
9代将軍・家重(いえしげ)が鶴を京都に送ったときは、街道筋では「お鶴様のお通り」と、言ったそうです。献上された鶴の肉は、新年三が日の朝、お吸い物となりました。
代々将軍も越ヶ谷御殿を利用
家康の没後、二代将軍・秀忠も頻繁に越ヶ谷御殿を訪れてくれました。元和6年(1620)には、幕閣の重臣一同とともに一か月以上滞在し、寛永2年(1625)12月に滞在したときは、御殿内で茶の湯をもよおすなど、優雅な鷹狩りだったようです。
三代将軍家光が越谷を訪れた記録は正史には見られませんが、越谷の豪族・会田氏の系図には、家光が越ヶ谷御殿に来遊し、家光自筆の絵や御手(おて)道具を下賜したとあります。
四代将軍の家綱は、まだ将軍になっていない大納言のときに、日光社参に出かけたさい(慶安2年=1649年4月12日)に、行きに昼食をとるために越ヶ谷御殿を利用し、帰りには越ヶ谷御殿に泊まりました。
これが越ヶ谷御殿を将軍が利用した最後になります。
家綱が将軍に就任した明歴(めいれき)3年(1657)の振袖火事、明暦の大火とも呼ばれておりますが、その火事で江戸城のほとんどが焼失したため、越ヶ谷御殿を江戸城内に移築し、将軍の仮の住まいとされたので、越谷御殿は幕を閉じました。
越谷御殿の跡地には御殿の痕跡となるようなものは何も残っておりません。発掘調査をすれば、何かしら見つかるとは思うのですが、今では、御殿町(ごてんちょう)という地名だけが当時の名残をとどめております。
このあと、家康の正室・瀬名姫(築山殿)と家康の息子・信康にまつわる秘話、家康の家系図など、宮川氏の研究に基づく興味深い話があったが、割愛。
まとめ
来年、2023年の大河ドラマでは、家康を扱った「どうする家康」が放送されるようですので、家康は越谷とはゆかりが深く、家康のおかげて今の越谷がある、ということを思って見ていただくと、またおもしろのではないかと思います。
以上、家康と越谷との関係を申しあげたしだいでございます。
宮川進氏の略歴
昭和14年(1939年)生まれ。滋賀県近江八幡市出身。大阪市立大学法学部卒。安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)、埼玉りそな銀行に勤務。2005年から10年余、NPO法人越谷市郷土研究会の会長を務める。現在、こしがや市民活動連合会副会長(広報兼任)。著書に埼玉県の主要な古墳を紹介した『埼玉の古墳めぐり謎とロマンの70基』(さきたま出版会)がある。
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続報|徳川家康新聞
2023年4月、越谷と家康の関係を紹介した「徳川家康新聞」が、旧日光街道・越ヶ谷宿を考える会から発行されました。編集責任者は宮川進氏。詳しくは下記の記事で。
2023年4月、越谷市の市民団体「旧日光街道・越ヶ谷宿を考える会」から、越谷とゆかりのある徳川家康の功績などを紹介した「徳川家康新聞」が発行されました。新聞は越谷市役所本庁舎4階の広報シティプロモーション課で無料配布されています。