越谷市向畑(むこうばたけ)にある向畑観音堂。堂面の観音堂とも呼ばれている。場所は、越谷野田線(埼玉県道・千葉県道19号)から古利根川に架かる堂面橋をわたって大杉公園通りを200メートルほど進んだ右手。聖徳寺の隣。明治14年(1881)に、現在の新方小学校の前身ともいえる向畑学校が、観音堂を校舎に開校した歴史もある。敷地内には「孝心」文字庚申塔や馬頭観音像供養塔など石仏も多く見られる。
歴史
向畑観音堂の創建年代はつまびらかではないが、もともとは山王山華光院と称された真言宗の寺院であった。『新編武蔵風土記稿』向畑村の項に「華光院 新義真言宗、葛飾郡野田村報恩寺門徒、山王山と号す、本尊薬師 山王社 観音堂」とある。敷地の右手には「山王山」と陽刻された石祠が安置されている小さなお堂があり、境内には「花光院」(華光院のこと)と刻まれた安永5年(1776)の庚申塔もある。なお華光院は「かこういん」ではなく「けこういん」と読む。
昔からこの地を地元では「堂面」(どうめん)と呼んでいたので、向畑観音堂(むこうばたけかんのんどう)は、堂面の観音堂(どうめんのかんのんどう)と呼ばれている。観音堂の南東200メートルを流れる古利根川に架かってる堂面橋の「堂面」の名もそこからきている。余談になるが、堂面橋が架かる前までは、現在の橋の付近は「堂面の渡し」と呼ばれる渡し場だった。この地をどうして「堂面」と呼んだかは諸説あって決めがたい。
向畑観音堂は新方小学校の前身だった。
明治5年(1872)の学制発布によって、越谷にも公立の学校が設けられた。当時の校舎は寺院が利用された。新方地区では、明治7年(1874)に、船渡村の竜正寺(※1)に船渡学校が開設されたが、明治14年(1881)に、新方地区七か村組合によって、この観音堂を教舎に向畑学校が開校した。この向畑学校が現在の新方小学校(にいがたしょうがっこう)の前身といえる。
※1 竜正寺(りゅうしょうじ)は廃寺となり、現在は墓地だけが残っている。跡地は大鳥集会所(船渡第六班集会所)になっている。
『越谷市史』通史下(昭和52年5月30日発行)「市内各小学校の沿革と現況」に、新方小学校の歴史が載っている。以下引用。
明治7年船渡村竜正寺に船渡学校が開設された。明治14年北川崎・向畑・大吉・大杉・大松・船渡・弥十郎七ヵ村組合により向畑観音堂に向畑学校が開設されたが、大杉・大松・船渡の生徒は船渡分校(竜正寺)に通学した。
明治18年、向畑学校は大吉村徳蔵寺に移り、大吉学校と改称された。明治19年、再び校舎を向畑観音堂に移し、向畑学校と称したが、明治22年の町村合併により新方尋常小学校と改称された。その年、観音堂の仮教室を廃止した。
明治31年、火災で校舎を焼失、大松清浄院を一時仮校舎として教室に充用した。この年、船渡分校が廃されているが、明治31年には現在地(越谷市北川崎178番地)に新校舎が建設された。(中略)昭和45年2月に、鉄筋三階建て新校舎と体育館が竣工した。引用元:『越谷市史』通史下「市内各小学校の沿革と現況」(新方小学校)
敷地内の風景
堂舎に通じる小道はふたつある。ひとつは本堂前に通じる参道。もうひとつは右端。どちらの道にも入口の両脇に庚申塔が建てられている。境内のイチョウの巨木が目を引く。上の写真は右端の小道。右手はこんもりした林で(写真では見えないが)林の中に小さな社がある。
まずは本堂へ
本尊は聖観音菩薩
本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。昭和29年(1954)4月に奉納された木製の扁額に「聖観世音菩薩」とある。
イチョウの木の下の石塔
堂舎に向かって左手は墓地。やや広い境内地。イチョウの木の下に六地蔵石幢と三基の石仏が並んでいる。
「孝心」文字庚申塔
イチョウの下に並んでいる石仏の中で、自然石の庚申塔がある。正面の上部に「日月」、主銘に「庚申塔」と刻まれている。台座には「不見 不聞 不言 行誉 拝書」とある。庚申塔では三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)の姿が彫刻されているのが一般的だが、ここには「不見」(見ざる)「不聞」(聞かざる)「不言」(言わざる)と、文字で刻まれている。これは珍しい。
裏面に「孝心」と刻まれている。
裏面には「明治二己巳年二月十八日 再立 向畑村」とあるので、明治2年(1869)に再建されたもの。再建とはいえ、越谷市内では数少ない明治時代の庚申塔のひとつといえる。
さらに珍しいのは裏面の碑文(※2)だ。「孝心」と題し、「庚申さまをよくおがめ、おがむその身ハすくにかうしん」と刻まれている。「庚申」を「孝心」の字に置きかえている。「孝心」を「庚申」に結びつけた教義は、足立郡鳩ヶ谷町(現・川口市)出身の小谷三志が唱えた不二孝(不二講)にみられるといわれ、この石塔も小谷三志の不二講の影響を受けている。
※2 石碑の風化が進んでいて、裏面の碑文を正確に読み取るのはかなり困難なので、碑文については『新方地区の石仏』加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)「旧向畑村の石仏」の項を参照した。表面の台座の銘文も同様。
越谷に不二孝を広めた大杉村の農民庄七
不二孝(不二講)は、富士山を信仰の対象とする集団・富士講の一派である。江戸時代に広まった。足立郡鳩ヶ谷町(現・川口市)の出身、小谷三志が、富士信仰を深化させ、「不二道」「不二孝」という教義を広めたことで、信者が増えた。向畑村の隣村・大杉村には、小谷三志の弟子のひとり農民庄七がいた。
『越谷の歴史物語(第二集)』越谷市史編さん室(昭和55年1月15日発行)不二講と大杉村庄七の項に、「三志の弟子のひとりに、大杉村(現・越谷市大杉)の農民・庄七がいる。庄七は、『不二道』の教義の布教につとめ、庄七が記した不二道教義に関する著書も越谷市内の旧家に残されている。[……]大杉村を中心とした新方地区の不二講(不二孝)は、庄七の布教活動による影響が強かったと考えられるが、現在、庄七に関する諸資料はもちろん伝承などについてもまったく残されていない」とある。
向畑観音堂の「孝心」文字庚申塔と庄七との関係は不明だが、すぐ近くの向畑村でも「不二孝」の信者集団があったことがうかがわれる。
石仏と石塔
参道と境内では庚申塔をはじめ石仏や石塔も多く見られる。墓地内では聖観音や如意輪観音などを浮き彫りした墓石が目立つ。如意輪観音は女性の墓石に多い。
地蔵像庚申塔
「孝心」文字庚申塔の隣にあるのは、江戸前期・寛文11年(1671)造立の地蔵像庚申塔。石塔型式は舟型。正面の頭頂部に梵字・カ(※3)が刻まれ、中央に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。脇銘に「庚講供養 栄伝 尭識房」「寛文十一辛亥天十月吉日」のほか、講員八人の名前がみえる。越谷市内では、このころは地蔵菩薩像の庚申塔がよく見受けられ、のちに目立って見られる青面金剛像の庚申塔は寛文の次の延宝や天和年間までは、まだ見られない。
※3 梵字「カ」は地蔵菩薩を示す種子(しゅじ)
馬頭観音供養塔
地蔵像庚申塔に向って右側の石塔は馬頭観音供養塔。三面八臂の馬頭観音像が陽刻されている。石塔型式は駒型。江戸後期・嘉永3年(1850)造立。
脇銘は「嘉永三戌年」「如是畜生 □□□□」と刻まれているが、□□□□ は劣化が激しく判読できない。『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)馬頭観音の項に、この供養塔の脇銘があり、「如是畜生 常性転進」と書かれているので、□□□□ の箇所は「常性転進」という文字が刻まれていると思われる。
六地蔵石幢
イチョウの根本、三基の石仏のうしろにあるのが、笠付き六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)。造立は江戸中期・享保5年(1720)。台座には、「奉造立六地蔵尊」「享保五庚子天」「八月吉祥日」「為二世安楽」「本願」などの文字と、「 浜野左平太 」ほか造立者14人の名前が刻まれている。
「鼠左平太」(ねずみさへいた)の伝説が残る「浜野左平太」家(堂面の観音堂の道路反対側)の先祖の名前である。幕末の棒使いの名人。小柄で軽業師のようで通称・鼠左平太と呼ばれ、草加の松並木(松原)で旅人を襲う悪党をこらしめたという。浜野家には家宝の樫の杖が今も保存されている。
地蔵菩薩の下の文字
六体の地蔵菩薩の下にそれぞれ文字が刻まれているが、劣化がひどく、判読できない。『新方地区の石仏』加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)「旧向畑村の石仏」にある解説文を転記する。以下引用。
幡幢を持つ地蔵菩薩像 金救地蔵餓鬼道
合掌する地蔵菩薩像 賛竜地蔵天道
宝珠と錫杖をもつ地蔵像 弁尼地蔵人道
幡幢を持つ地蔵菩薩像 救勝地蔵地獄道
香炉を持つ地蔵菩薩像 勝軍地蔵修羅道
数珠を持つ地蔵菩薩像 不休息地蔵畜生道引用元:『新方地区の石仏』加藤幸一(旧向畑村の石仏)
青面金剛像庚申塔|表参道
表参道(堂舎正面に通じる小道)左手、墓地の脇にある青面金剛像庚申塔。石塔型式は上部笠付舟型。年代は不詳。正面に、日月・一面六臂の青面金剛像・二鶏・邪鬼・三猿が陽刻されている。
文字庚申塔|表参道
表参道の右手、道路脇の垣根の下にある文字庚申塔。江戸後期・文化11年(1814)造立。石塔型式は頭部山状角型。正面に「日月」と「庚申」の文字が刻まれている。左側面は「文化十一甲戌三月」(※4)、右側面には「向畑村」とある。
※4 左側面の碑銘は、垣根にはばまれて読み取れなかったので、『新方地区の石仏』加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)「旧向畑村の石仏」を参照した。
青面金剛像庚申塔|横道
本堂に通じる横道の入口(両脇)には二基の庚申塔が立っている。上の写真は左手の青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。江戸中期・安永5年(1776)造立。正面に、日月・一面六臂の青面金剛像・二鶏・邪鬼・三猿が陽刻され、左側面には「安永五丙申年 講中」「願主 平七 左右衛門 花光院」、右側面には「申二月吉日」のほか、講員10人の名前がみえる。
文字庚申塔|横道
横道の右手にある文字庚申塔。石塔型式は駒型。江戸中期・宝暦5年(1755)造立。正面は、頭頂部に梵字・ウーンと日月。主銘「奉需庚申供養為二世安楽也」、脇銘「宝暦五乙亥天 二月十七日 敬白」。土に埋もれた台座に三猿が陽刻されている。右側面には「講中」とあり、講員6人の名前がみえる(※5)
※5 風化が進んでいて碑銘の全文を読み取るのは困難。主銘・脇銘については『新方地区の石仏』加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)「旧向畑村の石仏」を参照した。
山王社
本堂敷地の右手30メートルほど先に、こんもりした林があり、小さな社(やしろ)が鎮座している。以前は、うっそうとした林になっていたが、最近、一部伐採されて、敷地が整備されたことにより、見えるようになった。
社
社はこぢんまりした造り。新しい。林を伐採して敷地を整備したときに、建て直したものと思われる。小さめだが鈴と鈴緒もちゃんと付いている。
山王山の銘が刻まれている石祠
社の中をのぞいてみた。石祠が安置されている。新しい。社と同時期に再建されたものと思われる。屋根の部分に「山王山」と刻まれている。『新編武蔵風土記稿』向畑村の項に「華光院 新義真言宗、山王山と号す、本尊薬師 山王社 観音堂」とある。
向畑観音堂は、かつては山王山華光院という寺院だったので、この石祠の屋根に刻まれている「山王山」の銘は、華光院の山号を示している。この石祠が安置されている場所に山王社があったのかもしれない。
破損した石祠
社の脇に、破損した笠付きの石祠がまとめて置かれている(上の写真)。銘文は見当たらないが、もしかしたら再建前の山王社に安置されていた石祠かもしれない。
稲荷大明神文字塔
社の裏手に「稲荷大明神」と刻まれた文字塔がある。石塔の型式は祠型。江戸末期・文久4年(1864)造立。右側面に「再建主 向畑村」とあり、再建主二名の名前も刻まれているように見えるが、欠損しているので判読不能。左側面には「文久四甲子正月 □□□」とある。□□□ は欠損。読み取れない。
手水石
社の右手前方に小さな手水石(ちょうずいし)がある。正面に「奉納」、左側面に「元治二丑年 濱野助八郎」と刻まれている。元治(げんじ)は江戸末期の元号。元治2年は1865年。干支は乙丑(きのと・うし)。1865年は4月7日までが元治で、4月8日からは改元されて慶応になった。
交通案内
住所は埼玉県越谷市向畑885( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし むこうばたけ」。郵便番号は 343-0007 。花光院墓地で表記されていることもある。最寄駅は東武伊勢崎線の大袋駅だがバスは出でいない。以前は、せんげん台駅東口からタロースバスが運行していたが現在は運休中。駅から約4キロメートルなので歩くと40分以上かかる。大杉公園通り沿い「佐久間工業」の看板が目印。専用駐車場はないが、敷地内または墓地の裏手に二、三台車を駐めるスペースがある。路上駐車はできない。
謝辞
本記事をまとめるにあたって、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏から助言および細部にわたって校閲をしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。