2021年6月10日。越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の巡検に同行。東武伊勢崎線・蒲生駅西口を起点に、岩槻道と綾瀬川・出羽堀周辺を歩きながら石仏や史跡を見学。縄文時代の丸木舟発見跡をはじめ馬捨て場にあった馬頭観音像など越谷市蒲生西部地区の歴史を訪ねた。
集合|蒲生駅改札口前
集合場所は蒲生駅改札口前。受付後、資料を渡された。参加者は21人。今回同行したのは、NPO法人・越谷市郷土研究会の地誌研究倶楽部が主催する巡検「蒲生村の石仏と歴史・西部編」
主な巡回先は、茜通り…出羽堀…旧家(旧大間野村の年寄)…新川排水機場…綾瀬川の縄文時代の丸木舟の発見地…岩槻道…西浦橋…蒲生村の村捨て場…三宝荒神塔……山王社跡…蒲生駅引込線跡・倉庫跡ほか。
挨拶|出発前
13時。案内役を務める越谷市郷土研究会・加藤氏と地誌研究倶楽部・代表の秦野氏のあいさつ。加藤氏からは「今日の気温は30度。日差しも強いので、各自、こまめな水分補給など熱中症にもじゅうぶん気をつけること。体調がおかしいと思ったらすぐに申し出るように」などの注意事項も伝えられた。
蒲生駅の歴史
出発に先立ち、加藤氏から蒲生駅の歴史について簡単な説明があった。
蒲生駅は、明治32年(1899)8月、東武鉄道が北千住と久喜間で開通した同年12月に開設されました。当時の駅舎は蒲生村の北はずれ、登戸村の三軒家と呼ばれる人家のない低地・湿地のさみしい場所(現在の新越谷駅)で、8年後の明治41年(1908)に、蒲生村の北はずれの現在に移転しました。
出発
13時10分、出発。蒲生駅西口を左に折れ、東武伊勢崎線高架下の脇道を直進。
信号|蒲生駅高架下
150メートルほど進むと蒲生岩槻線(埼玉県道324号)にぶつかる。かつての古道である。左手は蒲生駅高架下。高架になる前は踏切だった。信号を渡って右へ
蒲生岩槻線|蒲生西町二丁目
蒲生岩槻線を西に進む。住所は蒲生西町二丁目。それにしても今日は日差しが強い。
交差点|茜通り
170メートルど歩くと交差点に出る。フジオックス(Fujiox)のビルが目印。左右に伸びる道は茜通り(あかねどおり)。信号を渡って左へ。
茜通り|グリーンベルト
茜通りを南に向かって歩く。茜通りは、出羽堀と東武伊勢崎線の中間地点を武蔵野線の高架下からまっすぐ南に1500メートルほど続く道路。地元ではグリーンベルトとも呼ばれる。
南越谷第三公園|茜通り
南越谷第三公園(越谷市蒲生西町二丁目)を右手に見ながら茜通りを直進。南越谷第三公園の木陰が一服の涼をもらたしてくれた。
もともとは茜通りは悪水堀だった。
案内役の加藤氏から茜通りの歴史について解説があった。
茜通りは、もともとは田んぼの不要な水を流す悪水堀(悪水路)でした。堀の両側には堀に沿って二本の道がありました。その堀に蓋をかぶせて暗渠(※1)にし、中央分離帯の役割をもたせ、両脇の道を整備してつくられました。蒲生茜町(がもうあかねちょう)を通る道なので、越谷市によって「茜通り」と名付けられました。ちなみに現在も茜通りの暗渠(あんきょ)には悪水路が通っています。
※1 暗渠(あんきょ)とは、蓋をされて外からは流れが見えなくなってしまった川や水路のこと。土の中に埋められてしまって水路跡だけが残っている場合も暗渠と呼ばれている。
十字路|茜通り
茜通りの十字路を右へ折れて西へ進む。西浦橋に向けて歩く。
西浦橋|出羽堀
13時20分。西浦橋に到着。茜通りから西浦橋までは約140メートル。西浦橋の下を流れているのは出羽堀。橋を渡って出羽堀を超えると大間野町(おおまのちょう)になる。西浦橋は渡らずに右折。
出羽堀
西浦橋の手前を右に曲ったところで、案内役の加藤氏から出羽堀についての解説があった。
出羽堀(でわぼり)の名前の由来は、江戸時代の初期に(四丁野村の名主と推定される)会田出羽介正之(あいだでわのすけまさゆき)が開いたことにちなんでいます。堀の長さはおよそ4キロメートル。
出羽堀の流路は、現在の県民健康福祉村の北にある三ツ叉堰(みつまたぜき)を起点に南東に流れ、草加バイパスと赤山街道を越え、富士中学校そばから南に折れ、西浦橋の北あたりから東に流路を変えて、綾瀬川と並行するように蒲生久伊豆神社や蒲生一里塚の脇を流れて、蒲生大橋の先、愛宕橋の下で綾瀬川に注がれていました(戦後まで)。
現在は、西浦橋からそのまま南下。150メートルほど先で綾瀬川に注がれています。この新しくつくられた西浦橋から綾瀬川までの流路は「新出羽堀」と呼ばれています。
出羽堀を上流方面に歩く
出羽堀の左岸脇の道を上流方面に歩く。沿道の緑が濃い。左手に蒲生のランドマーク、日本エレベーター製造・埼玉工場のテストタワーが見える。
右手前方にヤオコー(YAOKO)越谷蒲生店が見えてきた。出羽堀の前方に架かっている橋(上の写真の黄色い▲印)は出羽橋。
出羽橋|蒲生岩槻線
左右に延びる蒲生岩槻線にぶつかる。ヤオコー越谷蒲生店を正面に見ながら左へ折れ、出羽橋を渡る。案内役の加藤氏から「出羽堀の先の蒲生岩槻線は新道(新しい道)」との説明があった。
出羽橋
出羽橋を渡る。橋名板の「出羽橋」と刻まれた文字の「出」が草書体で書かれている。
この「出羽橋」は、出羽堀に架かっていることから名づけられました。じつは、最初に名づけられた出羽橋は、蒲生茶屋通りの日光街道と岩槻道の追分にあった(出羽堀に架かる)橋が、本来の「出羽橋」でした。「出羽橋」の名称がこの橋にも使われたことで、本家大元の江戸時代からの由緒ある「出羽橋」は、地元の地名を採用して「蒲生橋」と名称を変更しました。
出羽橋|出羽堀下流側の景色
出羽橋から出羽堀の下流(南方)を望む。前方に西浦橋が小さく見える。西浦橋から出羽橋までは約300メートル。のどかな景色だ。
出羽橋|出羽堀上流側の景色
出羽橋から出羽堀の上流(北方)を望む。手前に小さな橋がかかっている。出羽橋の上流100メートルほど先で、草加バイパスと出羽堀の中ほどを宮本町から流れてくる排水路(出羽堀2号)が出羽堀に注がれている。
日本エレベーター製造埼玉工場のテストタワー
出羽堀と別れを告げ、蒲生岩槻線を南西に進む。150メートルほど歩くと、日本エレベーター製造・埼玉工場の正門前に出た(越谷市大間野町一丁目)。眼前に、高さ約70メートル、「日本エレペーター製造」の文字と紅白のストライプがひときわ目を引く四角柱のテストタワー(試験塔)がそびえ立つ。竣工は昭和43年(1968年)3月。50年以上にわたって蒲生地区のランドマークとして親しまれ続けている。
蒲生岩槻線|新道と古道の境界
引き続き蒲生岩槻線を進むと丁字路に出た。前方左手にセブンイレブン越谷大間野店前が見える。
今まで歩いてきた道は新道で、ここから(日本エレペーターの工場が終わった地点から)先は古くからあった道(古道)になります。
買い物及びトイレ休憩|セブンイレブン越谷大間野店
13時35分。セブンイレブン越谷大間野店に着いた(越谷市大間野町一丁目)。ここで15分間の買い物及びトイレ休憩。
移動|蒲生岩槻線
13時50分。セブンイレブン越谷大間野店をあとに蒲生岩槻線を西へ進む。80メートルほど歩くと丁字路の信号に出た。信号下の横断歩道を渡って、30メートルほど来た道を戻る。
旧家に続く私道
蒲生岩槻線から左に続く砂利道に入る。左手は畑。この地点は他の地域と違って浸水の心配が少なかった微高地なので畑が見られた。この小道(こみち)は次に訪問する旧家の母屋へと続く私道になっている。母屋に続く道を地元では「かいどう」とか「けいどう」と呼ばれた。
旧家|旧大間野村の年寄
13時50分。大間野町二丁目の旧家に到着。この家は、江戸時代、大間野村の年寄(※2)の家柄で、代々、名主の補佐役を務めた。玄関先で奥さまが出迎えてくれた。庭先では、黄・オレンジ・白・唐紅(からくれない)と、鮮やかな百合の花が咲き乱れていた。
※2 年寄(としより)…江戸時代の村役人・村方三役(むらかたさんやく)のひとつ。あとの二役は名主(なぬし)と百姓代(ひゃくしょうだい)。年寄は名主に次ぐ役で、名主を補佐した。
カシの古木
庭先で目を引くのはカシの古木。樹勢は旺盛。江戸時代からこの家を見守り続けてきた。カシの木について奥さまが話をしてくださった。奥さまが嫁入りした当時はカシの木が六本あったそうだ。
数々の古文書
「このお宅には数々の古文書が保管されているんです」。以前、このお宅の古文書の解読と記録に携わった加藤氏が、家主の許可を得て、小作人に対する借金証書や検地帳などを見せてくれた。
古文書の一部を参加者がとても興味をもってみていたので、加藤氏がそれをじっくりと見せてくれた。上の写真の古文書には、上田(じょうでん)、中田(ちゅうでん)、上畑(じょうはた)、中畑(ちゅうばた)などの文字がみられ、それぞれの田畑の広さが尺貫法の町反畝歩(ちょうたんせぶ)の単位で書かれている。
大発見(?)元禄八年の御水帳
続いて取り出されたのは、326年前、江戸中期・元禄八年(1695)に行なわれた検地の結果をまとめた「検地帳」(御水帳=おみずちょう)と呼ばれる台帳を書き抜いた控えの記録。表紙には「武州埼玉郡大間野村元禄八亥御検地御水帳面孫助名所書抜」とある。同行した越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部代表の秦野氏によると、この「元禄八年」と記された御水帳の書き抜きは、かなり貴重な史料になるという。
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』には、大間野村では元禄十年に検地が実施されたことが記されていますが(※3)、この「大間野村元禄八亥御検地御水帳、書抜」は、『新編武蔵風土記稿』の記載を覆すかもしれない発見といえます。
※3 『新編武蔵風土記稿』「大間野村」の項に「検地は元禄十年酒井河内守糺(ただ)す」とあり、大間野村では元禄10年に検地が行なわれたと記載されている。当時、大間野村は七左衛門村の分村であったが、同じく七左衛門の分村であった越巻村と七左衛門村では元禄八年に検地が行なわれた旨が『新編武蔵風土記稿』にみえる。このことから「大間野村元禄八亥御検地御水帳、書抜」は、大間野村の検地も元禄10年ではなく、七左衛門村と越巻村と同様、元禄8年に行なわていた可能性があることを示唆している。
今回の巡検のあと秦野氏は『旧大間野村の「元禄八年」の検地』を著わし「大間野村元禄八亥御検地御水帳、書抜」について考察している。
http://koshigayahistory.org/210611_ohmano_kenchi_h_h.pdf
旧家前の私道|かつては綾瀬川の岩槻道まで続いていた
14時25分。旧家をあとに私道を通って蒲生岩槻線に戻る。この家が所有するこの道は、かつては近くにある現在のコンビニあたりから古綾瀬川(現在の新川)沿いの岩槻道まで続いていて、道の両脇には、この家が管理する広大な田んぼが広がっていたという。