越谷市大道の最西端、元荒川左岸側土手沿いの藪の中にある二基の道しるべ付き石塔を調べた。調査した路傍の石仏を写真とともにお伝えする。調査日は2025年3月9日。
二基の石塔
場所は、隣町の三野宮との境界に位置し、二基の石塔は、大野島越谷線(埼玉県道325号)に面して立っている。
大野島越谷線のガードレールと藪がじゃまをして、見つけるのに手間取った。
道標付き石塔
並んでいる石塔は次の二基。どちらも道しるべを兼ねている。
- 道標付き普門品供養塔
- 道標石塔
まずは、道標付き普門品(ふもんぼん)供養塔から見ていく。
道標付き普門品供養塔
向かって右の石塔は、道標付き普門品(ふもんぼん)供養塔(※1)。江戸後期・文化6年(1809)造塔。石塔型式は山状角柱型。
石塔の最頂部に、阿弥陀三尊を表わす梵字、キリーク(阿弥陀如来)・サク(勢至菩薩)・サ(聖観音)が、刻まれている。
※1 普門品(ふもんぼん)とは、法華経の第八巻第二五品「観世音菩薩普門品」の別称。観音経(かんのんぎょう)とも呼ばれる。観音経(普門品)を一定回数読誦(どくじゅ)した記念に建てたのが普門品供養塔。
主銘に「奉讀誦普門品五万巻供養塔」とあるので、この石塔は、普門品(観音経)を五万巻読誦した記念に建てられた供養塔だとわかる。
脇銘は「文化六己巳年」「三月吉祥日」
道標
両側面は道しるべになっている。
左側面
左側面(向かって右側)の銘は「こしがや道」。石塔に向かって、道を右に進むと越ヶ谷に至る、の意。
右側面
右側面(向かって左側)の銘は「まくり二十丁」
1丁は約100メートル。石塔に向かって、道を左に 2キロメートル(二十丁)進むと、間久里(まくり)に至る、の意。
現在、越谷には上間久里(かみまくり)と下間久里(しもまくり)があるが、もとはひとつの村だった。また、上間久里と下間久里を合わせて間久里とも呼ばれていた。
大道村講中
「まくり二十丁」の横には「大道村講中」(おおみちむらこうじゅう)と刻まれている。この普門品供養塔は、大道村の観世音菩薩を信仰する村人たち(講中)によって、建てられた。
盃状穴
石塔の上底面に盃状穴(※3)が見られる。
盃状穴(はいじょうけつ)については諸説あるが、なんらかの目的で人為的に彫られたと考えられている盃状(さかずきじょう)の穴(凹み穴)で、石造物に多くみられる。呪術や土俗信仰と深くかかわっているともいわれているが、詳しいことはわかっていない。
越谷市内には、盃状穴(はいじょうけつ)のある石造物が、ほかにもある。
NPO法人・越谷市郷土研究会のホームページに「盃状穴(凹み穴)のある越谷市内の石造物」というわたしの論考が掲載されている。リンク先を以下に示す。
https://koshigayahistory.org/r6_b_g_02.pdf
道標石塔
向かって左の石塔は、道標(どうひょう/みちしるべ)。年代不詳。石塔型式は駒型。正面の上部に、一仏座像が浮き彫りされているが、劣化していて、仏名(ぶつみょう)はわからない。
主銘は「ぢおんじみち」(慈恩寺道)
慈恩寺(じおんじ)は、さいたま市岩槻区の地名で今もある。この道しるべから元荒川に沿って北西に12キロメートルほど行くと慈恩寺に至る。
左側面
左側面(向かって右側)の銘は「こしがやみち」(越ヶ谷道)。石塔に向かって、道を右に進むと越ヶ谷に至る。
右側面
右側面(向かって左側)の銘は「まくりみち」(間久里道)。石塔に向かって、道を左に進むと間久里(まくり)に至る。
盃状穴
この石塔の上底面にも盃状穴(凹み穴)が見られる。
後記
大道の堤防道今昔
二基の石塔のある大道地区は、平成8年(1996年)から令和18年(2006年)にかけて行なわれた越谷市の「西大袋土地区画整理事業」によって、町並みの景観が著しく変貌した。
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