石塔群
墓塔・供養塔
庚申塔の隣、石塔群の中央には、僧侶の墓塔や供養塔などが14基まとめられている。僧侶の最高の位(くらい)をあらわす「法印」(ほういん)や「代々先師為」などの銘が読みとれる。
堂舎
石塔群の右端にある堂舎には二基の石造物が収められている。
不動三尊線刻塔
向かって左側は、自然石に刻まれた不動三尊線刻塔。
中央に不動三尊が線刻で描かれている。中央は不動明王。向かって左は脇侍(わきじ)の制多迦童子(せいたかどうじ)、右手は矜羯羅童子(こんがらどうじ)
脇銘は「村内為安善安置之」「鶴亀山鐫」のほか発起人三人の名前。台石の正面には「神凮社」(神風社)と刻まれている。「凮」は「風」の異字体。
建立は明治18年(1995)1月(※4)
※4 造立年を刻んだ銘が確認できないので、この石造物の調査記録が収録されている『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)「不動」二二番の年号「明治十八年一月」195頁に従った。
昭和43年ごろの写真
出典:越谷市デジタルアーカイブ(※5)
57年前、昭和43年(1968年)ごろに撮影された、不動三尊線刻塔の写真(白黒)が、越谷市デジタルアーカイブに公開されているので転載した(上の写真)。線刻で描かれた不動三尊がはっきり写っている。当時は上間久里地蔵堂にあった。
※5 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 上間久里地蔵堂不動明王陰刻塔 )
修復された跡
自然石の石塔部分をよく見ると、四つに割れた箇所が修復されている。
この石塔を平成6年(1994)に調査した越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると「調査後(平成6年以降に)大きく四つに割れて破損したが、接着して修復され、現在に至る」(※6)という。
※6 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂「不動三尊線刻像(明治十八年)」31頁
参考|加藤幸一氏のスケッチ
※7 上のスケッチは加藤幸一氏提供
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏が、平成6年(1994)に、この不動三尊線刻塔を調査してスケッチに記録しているので、加藤氏に許可を得て転載した(※7)
現在は、風化と劣化で線刻画の図柄がわかりにくくなってしまっているが、加藤氏のスケッチで、不動三尊の図柄がはっきりとわかる。
※7 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂「不動三尊線刻像(明治十八年)」31頁
この閻魔堂の不動三尊線刻塔の図柄と大きさもほぼ同じ石塔が二基、野田市の愛宕神社と香取神社にあるとのことなので、後日調査する予定。
念仏供養塔
不動三尊線刻塔の隣は、阿弥陀如来を主尊とした念仏供養塔。江戸前期・寛文4年(1664)造塔。石塔型式は舟型。
正面中央は浮き彫りされた阿弥陀如来立像。脇銘は「□念佛講中菩提也」「寛文四甲辰歳十月十五日」
□の部分は欠けているので正確には読みとれないが「四」という漢字に見える。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は「『□念仏講中』の□は四とも読める。すると『四念仏』つまり『夜念仏』を指すのであろうか」(※8)と述べている。夜念仏(よねんぶつ)とは、夜、念仏を唱えること。
※8 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂「阿弥陀像付き念仏塔」77頁
像容
仏像の髪は螺髪(らほつ=巻き貝のような縮れ毛)。表情はおだやか。布(衲衣=のうえ)を一枚まとっただけの質素な服装。持物はない。
来迎印
この石仏は、阿弥陀如来の特徴である来迎印(らいごういん)を結んでいるように見えるが、肝心の親指と人さし指が欠けてしまっている。
右手を上げ、左手は下げ、手のひらは両手とも前に向け、親指と人差し指で輪をつくった印相(いんぞう)。印相とは仏の特徴をあらわす指の曲げ方や手の組み方のこと。
来迎印|右手
右手は肘を曲げ、上に上げられ、手のひらは前に向けられている。親指と人差し指が欠けてしまっているが、人差し指が曲げられ、親指と輪をつくっているように見える(上の写真の黄色い○印)
来迎印|左手
左手は下に下げられ、手のひらは前を向いている。左手も親指と人差し指が欠けてしまっているが、親指で輪をつくっているように見える(上の写真の黄色い○印)
阿弥陀如来と推定
平成6年(1994)に、この石塔を調査した越谷市郷土研究会の加藤幸一氏も「(この石像は)阿弥陀来迎印を結んでいる如来像と推定できる」(※9)と述べているので、本記事でも加藤氏に従って、この石像は、阿弥陀如来とした。
※9 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂「阿弥陀像付き念仏塔」77頁
四十八願
阿弥陀像の両脇には、人の名前が数十人ほど、びっしりと刻まれている。劣化がはげしく、読み取ることはできない。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は「この石像の両脇には阿弥陀四十八誓願にちなんで四十八名の人名が刻まれている」(※10)と述べている。
四十八誓願とは四十八願(しじゅうはちがん)とも呼ばれ、阿弥陀仏が修行時代に、いっさいの衆生(しゅじょう=生きとし生けるもの)を救うために立てた四十八の誓願のこと。
※10 加藤幸一「桜井地区の石仏」平成5・6年度調査/平成31年8月改訂「阿弥陀像付き念仏塔」77頁