越谷市大沢の地蔵堂(通称・地蔵橋の地蔵堂)にある石仏や板碑などの現状を調査した。当日の様子を写真とともに紹介する。場所は、逆川(さかさがわ)に架かる地蔵橋の東詰から南東20メートル、大沢歩道橋の階段手前の路傍にある。
地蔵橋地蔵堂
調査したのは 2022年10月30日と12月22日の二日間。まずは地蔵橋地蔵堂について触れておく。
建立時期
地蔵橋の地蔵堂が建てられたのは、江戸後期・天保13年(1842)4月以前と推定されている。江戸後期に編纂された地誌『大沢町古馬筥』(おおさわまちこまばこ)に、地蔵橋の地蔵堂について「天保十三寅年四月南の方へ拾三間四尺五寸ほど先に堂をうつしぬ」(※1)との記述がある。
※1 『越谷市史四』(史料二)越谷市役所(昭和47年3月30日発行)「大沢町古馬筥」136頁
過去2回移転
2022年11月2日に行なわれた第518回越谷市郷土研究会史跡めぐり兼リバーウォークガイドツアーで、案内役の秦野氏(越谷市郷土研究会・副会長)から「地蔵堂は過去二回移転していて、現在の場所は三箇所目になる」(※2)との解説があった。
◇天保十三年(1842)四月以前:「逆川右岸」◇天保十三年(1842)四月以降:「逆川右岸」南へ13間14尺5寸(約25m)移築しました。◇「?年」から現在まで:「逆川」左岸へ移築しました。
出典:『地蔵堂』の場所の変遷(※2)
※2 「平成27年度 大沢地区コミュニティ推進協議会 大沢宿の歴史を学ぶまちあるき」レジュメ『地蔵堂」の場所の変遷
地蔵橋は地名でもあった
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏によると「『地蔵橋』の周辺、現在の大沢四丁目あたりの地域名をかつては地元では『地蔵橋』と呼んでいた」という。
※3 「大沢町・越ヶ谷町の石仏」加藤幸一(平成13年度調査/平成31年7月改訂)越谷市立図書館所蔵「地蔵橋の地蔵堂」32頁
地蔵尊
堂舎の中央に、地蔵尊が陽刻された駒型の石塔が安置されている。地蔵尊の両脇(左右)に、丸彫りの地蔵尊が二尊置かれている。
地蔵尊の造立年代については諸説ある。
元文2年説
堂舎の壁に貼られた説明書きによると「この地蔵橋地蔵尊は、江戸中期・八代将軍吉宗の代、元文2年(1737)以前から、安産・子育てのお地蔵様として信仰されてきた由緒ある仏様です」という。
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は、地蔵橋地蔵尊の年代について「一説に、元文2年〈1737〉以前より安産・子育ての地蔵として信仰されてきたとされているが定かではない」(※4)と述べている。
※4 「大沢町・越ヶ谷町の石仏」加藤幸一(平成13年度調査/平成31年7月改訂)越谷市立図書館所蔵「地蔵橋の地蔵堂」32頁
宝暦9年説
『ときの風』(ふるさと大沢 今昔物語)には「この(地蔵橋の)地蔵尊は宝暦9年(1759)まで遡れる」(※5)と記されている。
※5 越谷市制60周年記念『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』大沢地区コミュニティ推進協議会(平成30年〈2018〉4月発行)「地蔵尊の由来」91頁
地蔵尊のご利益
この地蔵尊は、安産・子育てのお地蔵様として信仰されてきた。
地蔵尊のご利益について、『大沢町古馬筥』(おおさわまちこまばこ)に、「地蔵尊は石彫の立像也、願望成就の備物(びぶつ)として塩を奉納す、塩の為に石像其本体を失ふ、[中略]地蔵尊は安産、子そだて其外の病に願かけして信心する時は、其仏力大かたならすと皆人いふ、」(※6)との記述がある。
※6 『越谷市史四』(史料二)越谷市役所(昭和47年3月30日発行)「大沢町古馬筥」(地蔵橋の地蔵堂)136頁
堂舎
トタン張りの堂舎。裏手には逆川(さかさがわ)が流れている。堂舎の位置は逆川の左岸。逆川の対岸には大沢四丁目自治会館の建物(二階建て)が見える。
扁額と鰐口
堂舎には扁額と鰐口(わにぐち)が掛けられている。扁額には「奉納 地蔵尊 明治三十二年 七月」と書かれている。
手水鉢
堂舎の前に手水鉢(ちょうずばち)が置かれている。正面に「奉納」、側面に「嘉永三年」「大澤地蔵橋」「願主 田邊谷□」の文字が確認できる。嘉永3年は江戸後期。年号は1850年。
上述の加藤氏の話にもあったように、手水鉢にある「大澤地蔵橋」の銘から、かつてこのあたり(現在の大沢四丁目あたり)が「地蔵橋」と呼ばれていたことが分かる。