旧埼玉銀行跡地
会田人形店を出て右へ。旧日光街道を100メートルほど歩くと、越ヶ谷二丁目交差点にぶつかる。角地にある広場は新町・本町ふれあい広場。かつてここに埼玉銀行があった。広場の横を越谷駅東口に向かって通っている道は、先ほどの旧駅前通り。銀行も姿を消し、にぎわいを見せいていた当時の面影はない。
田中米穀店
越ヶ谷二丁目交差点から約40メートル。田中米穀店(たなかべいこくてん)に到着。菱形の銅板戸袋(とぶくろ)が特徴的な建物で、昭和初期に建てられた。当主が昨年逝去。米屋は廃業。また一軒、越ヶ谷宿の老舗が静かにのれんを下ろした。
行徳屋
田中米穀店のはす向かいにあるのは行徳屋(ぎょうとくや)。田中米穀店の二階銅板戸袋は菱形だが、徳屋の二階の銅板戸袋は網代(あじろ)型。
はす向かい同士で同じ模様の戸袋にするのはイヤだったので、それぞれ違った模様に細工したのでしょう。どちらの戸袋も同じ職人が細工を施したものと思われます。
横田診療所
田中米穀店から 60メートル先にある西洋風の木造二階建て建物は横田診療所。レトロ館ただようピンク色の外観が目を引く。昭和10年(1935年)築。昭和35年(1960年)までは郵便局として使われていた。
内科・小児科・婦人科の診療所を長らく営んでいたが、院長である女医が昨年亡くなり、現在は休業状態。この建物は日本人の大工が建てたもの。歴史的にも貴重な建物なので、なんとか残してもらいたい。
明詩社書店|閉店
横田診療所から70メートル先の右手には明詩社(めいししゃ)書店がある。大正15年(1926年)開業。85年にわたって、地元の本屋さんとして書籍や雑誌のほか教科書販売にも携わってきたが、昨年(2021年)10月に閉店した。さみしいかぎりである。
明詩社書店手前のT字路を左に曲がる。
油長内蔵まち蔵カフェ
油長内蔵(あぶらちょううちくら)に到着。油長(あぶらちょう)という屋号で油屋(あぶらや)を営んでいた旧家・山崎家の蔵を2015年に再生・改築して、まちづくり相談処として生まれ変わった。
1階部分はカフェスペースとして毎週、金・土・日曜日に「まち蔵cafe」(まちくらカフェ)を営業。そのほか、1階と2階は、イベントスペースや日替わりショップなどにも利用されている。
押絵雛
2階では、雛めぐりに合わせて、珍しい押絵雛(おしえびな)が展示されていた。押絵雛とは正月の羽子板に使われる雛人形の押絵を掛け軸に挿して五段飾りに見立てたもの。
この押絵雛が作られたのは明治から大正にかけて。押絵雛を収納する箱には「美術御雛人形師 鳳雲齋玉舟」と、製作した人形司(にんぎょうし)の名前と落款が押された紙が貼られていた。
手作り雛人形
一階には、まち蔵カフェの奥さんが作ったかわいい手作り雛人形が屏風とともに飾られていた(上の写真のいちばん奥の人形)
徳川家康と越谷
油長内蔵の雛人形を見学したあと、案内役の宮川氏が、徳川家康と越谷について、話をしてくれた。
徳川家康は鷹狩りが好きだったので越谷にはよく来ていました。よほど気に入っていたようで、越谷に御殿まで造らせました。日光街道の道筋を最初に決めたのは家康です。もし家康が越谷に肩入れをしていなかったら、越ヶ谷宿は日光街道からはずされていたかもしれません。
越谷赤山街道入口
油長内蔵をあとに路地を進むと、越谷市立越ヶ谷小学校の校庭側に出る。校庭に沿って延びている道は越谷赤山街道(こしがや・あかやまかいどう)。江戸時代、赤山(現・川口市赤山)にあった陣屋まで年貢を運ぶ街道として整備された。
道の左手は越谷市立越ヶ谷小学校。前方に黒く塗られた板塀(有瀧家の黒塀)が見える。黒塀に沿って右に進むと旧日光街道にぶつかる。赤山街道と旧日光街道がぶつかる地点が越谷赤山街道の入口。そこから赤山の陣屋まで続く道を越谷赤山街道と呼ぶ。
おぎの人形店の手前を右へ
八百喜参の蔵
八百喜・参の蔵(やおき・さんのくら)に到着。昔は「八百喜」(やおき)という屋号の魚屋だった。蔵の外見は石造りのように見えるが、洗い出しと呼ばれる製法で作られた木造の蔵だというから驚きだ。
雛飾り
蔵の中で雛人形が飾られていた。
寿々喜雛
蔵の入口に飾られていた立ち雛は寿々喜雛(すずきびな)。天皇陛下への献上品製作も行なった人形作家・鈴木賢一氏作。
有瀧家の黒板塀
八百喜参の蔵を出て右へ。T字路の角地にある黒塗りの塀は、有瀧家の黒板塀(ありたきけのくろいたべい)。建造物を支えるために土台として黒塀の下に据えられる礎石(そせき)には、江戸城の石垣にも使われた伊豆軟石が使われている。
黒塀の手前を左に折れて直進。
中町浅間神社
中町浅間神社(なかまちせんげんじんじゃ)に到着。越ヶ谷宿・中町の鎮守社。境内のケヤキは推定樹齢600年。「浅間神社のケヤキ」の名で越谷市の文化財(天然記念物)に指定されている。
鳥居の神額には「不士仙元社」(ふじせんげんしゃ)と書かれていることから、富士山信仰とも関わっていたようだ。
土を盛って人工的に小高くした神域に神殿が建てられていますが、これは、富士山を模して信仰の対象とした富士塚のようなものではないかと思われます。
中町浅間神社をあとに
旧日光街道に出て信号を左折。