越谷市袋山中組の嫁講|後半

――嫁講は当番の家でやったんですか?

関根花子さん

最初は薬師堂でやっていました。


当時(昭和40年ごろ)は薬師堂に留守居の夫婦が住み込みでいたんですよ。そこを借りてやっていました。薬師堂はそのころはもうかなり古かったですね。
 
嫁講をやっているあいだ、子供たちは外(境内)で遊んでたりしてました。
 
その後、薬師堂を建て替えることになり、その間は、上組の観音堂を借りて、やりました。わたしが、四十いくつのころだったかな。

袋山観音堂

袋山観音堂

※袋山観音堂…昭和44年(1969年)6月再建

観音堂には煮炊きできる土間もあったので、当番が、ご飯を炊いて、味噌汁を作りました。近所に肉屋さんがあったので、おかずはコロッケが多かったかな。
 
そのほかに、自分たちがおかずを一品、持ち寄りました。

袋山薬師堂

袋山薬師堂

※昭和52年(1977年)に再建された袋山薬師堂

そうして、(昭和52年に)薬師堂が建て替えられたので、私たちのヨメコも再び上組の観音堂から薬師堂に戻りました。新しい薬師堂は八畳二間で、煮炊きできる台所もありました。

――嫁講は一日ずっとやっていたんですか?

関根花子さん

ヨメコは、お昼と夜の二回、やりました。


お昼は12時に集まりました。それでお昼ご飯を食べて、3時ごろにお茶を出して、途中、それぞれ家で夕飯のしたくがあるので、当番以外は、一度家に帰って、家のごはんの支度をすませてから、6時半ごろに戻ってきて、当番は早めに戻ってきて、ご飯を炊いて、味噌汁を作って、おかずは昼のものを食べました。
 
夜の部は9時ごろにお開きになった。
 
最初のころは、夜もご飯を炊いていましたが、だんだんと近所にもお店(飲食店)ができてきたので、60年前(昭和40年)くらいかな、昼も夜も当番がやるんじゃたいへんだろうからと、夜は、各自実費で、そば屋さんに出前をとるようになりました。
 
そのうち、お店も増えてきたので、お寿司や釜飯なんかも(出前を)とるようになりました。
 
関根花子さん

最後は昼も夜も出前になった。


料理を作るのはたいへんだからってことでさ。作るのはたいへんだからもうやめようと。
 
出前を頼むときは当番が何にするかを決めた。お寿司にするか、そばにするか、釜飯にするか。

――料理で印象のあるものはありましたか?

きんぴらごぼう、芋の煮っ転がしとかかね。あとは混ぜご飯かな。ヨメコの中に鶏を飼ってた家があって、そこが当番だと、オムレツを人数分作ってきてくたりもしたな。

――みんなでどんな話をしたんですか?

そうだねぇ、だいたいが世間話、身の上話だったね。それよりもさ、当時は(農作業や家事、子育て、おばあさんの世話などで)忙しかったから、とにかく(嫁講の日は)、休めた。それがいちばんだったかな。
 
うちなんかは、子供がまだ小さいときは、ばあちゃんが、ヨメコの日は、子供を家で寝かしつけてくれたりもしたね。

――楽しかったですか?

関根花子さん

楽しかったというか、休めたんだよな。


あのころはさあ、今みたいに農家にはトラクターとかもないからね、それで朝から畑や田んぼをやって、忙しかったですよ。
 
それに、おばあさんの念仏講の日(毎月25日)はたいへんだったよ。当番の家の嫁が、ご飯やおかずを作って、一日二回、持っていくんだから。
 
おばあさん講の人数分、おいなりさんを作ったときなんか、油揚げを60枚ほど炊いて、たへんだったよ。
 
でもわたしも若いから動けた。

――昼と夜の違いはあったんですか?

関根花子さん

夜がいちばん楽しかった。


夜はさ、みんなあーでもない、こーでもないと、いろんな話をした。お酒はでなかったな。好きな人もいたと思うけどな。嫁はさ、さすがに酔っ払って家に帰れないからね(笑)
 
酔って家に帰ったりしたら、そりゃたいへんだよ。今どきの嫁は!と、上様(うえさま=しゅうとめ)に何言われっかわかんねえからな。
 
今はさ、そんなこともないんだろうけど、50年前(当時)はさ、たいへんだったよ。いろんなことを言われるからさ、頭を切り替えていかなかったら、とんでもないことになったよ。
 
ちょうどさ、私たちは、嫁姑でたいへんな思いをした迫間の世代じゃないか。

――慰安旅行なんかも行ったんですか?

上組と下組のヨメコはバスで旅行なんかも行っていたな。私たち中組のヨメコは地味だったから、旅行には行かなかった。

――関根さんは中年講やおばあさん講には入らなかったんですか?

わたしが袋山に嫁いできた(昭和33年/1958年)ころは、(袋山の)上組・下組には、中年講や、おばあさん講もあったんですよ。
 
私らがさ、年齢が上がったときは、念仏講(おばあさん講)や中年講の人たちがいなくなっちゃって(死んじゃって)、けっきょく、ヨメコ(嫁講)だけが残ったので、そのままヨメコとして、やっていました。

野口高明さん

念仏講(おばあさん講)と中年講は自然消滅ですね。

――いつごろまで続いたんですか?

中組のヨメコは、わたしが70歳ぐらい(平成19年〈2007年〉ごろ)まで続きました。最後は私たちがいちばん上の世代になっちゃって……。下はそうだねぇ、60代ぐらいまではいたかな、人数は十二、三人に減ってしまいました。
 
私たちがいちばん長くやってた世代かなぁ。
 
最後は私たちの嫁はもう(嫁講には)入らないしね。
 
昔はほら、テレビもなかったし、車もなかったし、出かけることもなかったから、月に一度のヨメコが楽しかったけど、私たちの嫁は車の運転もできるからな。

関根花子さん

若い人もいないし、このまま続けるか、解散するかを全員で話し合って、解散することにしました。

――今日は貴重なお話をありがとうございました。

後記