平成19年(2007年)まで行なわれていた越谷市袋山・中組の「嫁講」(よめこう)で、最後まで活動していた86歳の女性に、当時の様子を聞き取り調査した。今では越谷市から姿を消した「嫁講」の貴重な話をうかがうことができた。
聞き取り調査概要
※関根花子さんと野口高明さん
聞き取り調査は、2023年11月14日に行なった。話をうかがったのは、袋山の旧家に住んでいる関根花子さん(86歳)。取材場所は関根さんの自宅。
聞き取り調査は録音し、後日、当ブログ(越谷探訪)の記事にすること、記事には顔写真も掲載する旨を承諾していただいたうえで取材した。
また、当日の聞き取り調査には、関根花子さんの孫にあたる野口高明さん(現・越谷市議会議員)にも同席していただいた。
嫁講とは
嫁講(よめこう)とは、農村集落に嫁いだ「嫁」たちの集まりのこと。越谷市域では、娘講・嫁さん講・おかみさん講・念仏講など、女性の講組織が旺盛だった(※1)
※1 『越谷市史 第一巻』越谷市(昭和50年3月30発行)1238頁
袋山地区の嫁講
また、袋山地区の嫁講について、昭和55年(1980年)に発行された『袋山の歩み(上)』(※2)には、次のように記されている。カッコ内は筆者注。
遠い昔から日本中の農家は毎日がきつい力仕事に追われていました。
この袋山もいまから約30年くらい前(昭和25年/1950年)ごろまでは純農村でしたから、とくに各家々のお嫁さんの立場は心身ともに毎日がたいへんでした。
そのため毎月一回集会所に集まり、昼、夜の二回会食しながら談笑にふけったり、ゆっくり休養したのが始まりであり、目的でした。
下組と上組のほかに中組があって、場所は薬師堂を使っています。この嫁講のメンバーは各農家のお嫁さんが主体ですが、最近ではその分家の人々も入っているようです。引用元:『袋山の歩み(上)』(※2)
※2 『袋山の歩み(上)』中島正一(昭和55年11月1日発行)83頁
以上を踏まえたうえで、平成19年(2007年)まで越谷市袋山の中組で行なわれていた「嫁講」の実態についての聞き取り調査の様子をお伝えする。
越谷市袋山中組の嫁講|前半
――関根さんの出身地を教えてください。
わたしは春日部の河辺村中野(現在の庄和町中野)の生まれで、21歳のとき(昭和33年/1958年)に、お見合いで、ここ(袋山)に嫁いできました。
――嫁講の呼び方は「よめこう」でいいんですか?
私たちのころは「ヨメコ」と呼んでいました。
袋山には三峯講(みつみねこう)という男性の講がありました。三峯講は今も続いていて、わたしも三峯講に入っています。
――結婚している女性は全員、嫁講に入るんですか。
そうだね。だいたい、嫁に来て、二、三年で入るね。
昔は今みたいにこんなに家はなかったから、私は長男が生まれる少し前、23歳のとき(昭和35年)に入ったかな。近所のお嫁さんたちもだいたいヨメコに入ったから、おばあちゃんが、「ウチも入れなくっちゃ」と言って、入りました。
当時は、なんの遊びもなかったでしょ。そこでね、当番がご飯炊いて……。
――関根さんは袋山のどの地区の嫁講だったんですか。
わたしは、袋山の中組ね。袋山には、上組・下組・中組がありました。
――中組の嫁講には何人ぐらいいたんですか?
そうね、十五、六人いましたね。
――どのくらいの頻度で行なっていたんですか?
月に一回。曜日は決まっていません。当番の人が、都合のいい日にやりました。
各家を当番が回って、参加の有無を聞いて、参加者からはお米を五合いただいてくるんですよ。子供を連れてくる家(うち)からは、子供ひとりにつき、お茶碗に一杯、お米をもらってきました。
当番は二人当番で、持ち回りました。最初のうちは、一年に一回ぐらいで、当番が回ってきましたが、だんだんヨメコの人数が減ってきて、しまいには、半年に一回ぐらいで当番をやってました。
維持費のようなものは、ありませんでした。
――当番はどんなことをやるんですか?
当番は朝から忙しいですよ。
当番ふたりで、片方がご飯を炊いて、片方が味噌汁を作って、そのほかにそれぞれおかずを一品ずつ作って、それにおしんことかを付けて、持っていきました。
当番がお膳の用意をして、ご飯をよそったら、「召しあがってください」と言って、ヨメコ(嫁講)が始まりました。