まとめ
最後に、今回のお話をまとめさせていただきます。
越谷の名付け親
越ヶ谷宿の街並み(会田金物店)
「こしがや」(越谷あるいは越ヶ谷)という名前は、家康が日光街道の道筋を引き、当時「越ヶ谷郷」(こしがやごう)と呼ばれていた郷名(ごうめい)を「越ヶ谷宿」という宿場の名称に付けてくれたことがはじまりです。そういうことでは家康は「越谷」の名付け親ともいえます。
越谷が安心して住める土地になった
元荒川(元荒川橋付近)
家康以前は、利根川と荒川ふたつの大河が越谷を通って江戸湾に注がれていました。それを家康が、利根川は銚子のほうに東遷させ、荒川は西遷させてくれたのです。これによって、越谷を流れ込んでいたふたつの大河がなくなったため、越谷は安心して住める土地になりました。
そして、大袋と花田のふたつの大曲流です。それぞれ曲流になるところと戻るところを結んでショートカットさせました。これで、大曲流がもたらす洪水の危険もなくなり、越谷にとってはありがたい大きな土木工事でした。
日光街道に面するマチになった
越ヶ谷宿(木下半助商店)
東北と日光に通じる日光街道は(途中から奥州街道になりますが)、どう考えても、本郷・川口・岩槻をつなぐ大宮台地上を通るべきものでしたが、家康さん「配慮」があって、千住・越谷・春日部をつなぐルートになりました。
二代目将軍・秀忠がはじめて日光社参(にっこうしゃさん)に旅立ったとき、折からの風雨で、草加のあたりで随従していた部下が13人も溺れ死んだというくらいの低地に、あの安全第一の家康が日光街道を通したのは、よっぽど家康は越谷が好きだったと思われます。
なぜ家康は越谷が好きだったのか?
家康は、征夷大将軍になる前、鷹狩りで越谷に来ていたのです。自分がいちばん好きな趣味で、いちばん楽しい思いをさせてくれた越谷を、これからも鷹狩りで楽しめるようにと、日光街道のルートを越谷経由にしてくれました。
いまの日光街道のルートは、地形うんぬんで、できたのでなく、家康がこのラインで道筋を引いてくれたから、ここにあるわけでして、日光街道がなかったら、今の越谷はありません。
今こうして越谷があるのは家康さんのおかげなんです。
越ヶ谷御殿が愛用御殿だった
越ヶ谷御殿跡碑(越谷市御殿町)
家康は数ある鷹狩り用の御殿の中で、越ヶ谷御殿がいちばんのお気に入りでした。一年に何回来てくれたか。何日滞在してくれたか。最高の獲物だった鶴を何羽も捕えたのはいつの鷹狩りか……などなど。古い記録に越ヶ谷御殿の名前がいたるところに出てきます。
家康にお礼をもらった大聖寺
大聖寺の山門(越谷市相模町)
越ヶ谷御殿がまだないころに、鷹狩りに出かけた家康を泊めた寺社は全国にもあったでしょうが、お礼をいただいているのは、越谷の大聖寺だけだと思われます。
また、家康から御朱印をいただいたお寺の数も埼玉県内では越谷がいちばんです。
家康は越谷がほんとうに大好きだったんだなと思います。
最後に
冒頭でも申しましたが、来年(2023年)の1月から家康を主人公にした大河ドラマ「どうする家康」が始まります。家康は越谷の基礎をつくってくれたヒトなんだ、ということを念頭に置いて見ていただきますと、また違ったおもしろさがあるのではないかと思います。
以上、祝・大河ドラマ「どうする家康」記念と題しまして、家康と私たちの越谷について申しあげたしだいでございます。
宮川進氏の略歴
昭和14年(1939年)生まれ。滋賀県近江八幡市出身。大阪市立大学法学部卒。安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)、埼玉りそな銀行に勤務。2005年から10年余、NPO法人越谷市郷土研究会の会長を務める。現在、こしがや市民活動連合会副会長(広報兼任)。著書に埼玉県の主要な古墳を紹介した『埼玉の古墳めぐり謎とロマンの70基』(さきたま出版会)がある。
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今回の記事は、2022年9月27日から10月25日にかけて越谷市北越谷地区センター・公民館で行なわれた「令和4年度・歴史探訪講座」の総集編として、話し手をつとめた宮川進氏の講話をまとめたものである。
令和4年度・歴史探訪講座の各内容については別途記事にしてある。
令和4年度・歴史探訪講座