斎藤豊作生家跡

斎藤豊作生家跡|シイの巨木

土手下の道をしばらく下流に向かって歩くと前方にシイの巨木が見えてた。今は住宅街になっているが、かつてこのあたり一帯は、幕末から明治にかけて「味噌屋」と呼ばれた醸造業で財をなした名主・斎藤家の屋敷だった。シイの木がある場所も斎藤家の跡地。
 
この斎藤家から、大正から昭和にかけて活躍した洋画家・斎藤豊作(さいとうとよさく)が出ている。豊作は、明治13年(1880)6月22日にこの地で生まれ、幼少期を元荒川の岸辺で過ごし、大正8年(1919)から故郷を離れてフランスに永住。昭和26年(1951)、フランスの自宅で71歳の生涯を閉じた。
 
大正3年(1914)に画家仲間と二科会(現在も二科展などで知られる美術団体)を設立し、多くの画家を育成したことでも知られている。

豊作の作風

案内役の田中さん

豊作の作品の特徴は、線を使わずに点やそれに近いタッチで表現する点描(てんびょう)と呼ばれる画法で、日本の近代絵画史に大きな足跡を残しました。


フランス生活が長かったので、日本に現存している豊作の作品は少ない。明治43年(1910)ごろの作といわれる遺作の『風景』は、越谷市の有形文化財(絵画)に指定されていて、現在、越谷市立図書館に所蔵されている。

移動|大聖寺へ

シイの巨木の下で、斎藤豊作についての話を聞いたあと、斎藤家の屋敷跡(住宅地)を通りながら、最終地点の大聖寺へと向かった。上の写真は、住宅地の一画にある公園。かつてここも斎藤家の屋敷だった場所である。

二股道

二股道

元荒川右岸土手にある堂端落し(どうばたおとし)スポット広場手前の二股道を右に進む。堂端落し排水機場が右手に見える。

大聖寺歴代住職墓所

大聖寺歴代住職墓所

50メートルほど先の丁字路を左に曲がると、一画が、ブロック塀に囲まれた墓地になっている。ここは大聖寺の歴代住職の墓所。大聖寺は境内に墓地を置かない祈願寺だったので、大聖寺の西側にあたるこの場所に、歴代住職の墓を設けたと思われる。
 
門から中をのぞくと、五輪塔や卵塔(らんとう=無縫塔)などの墓石が整然と並べられていた。宝篋印塔(ほうきょういんとう)も数基あった。
 
ここから大聖寺までは距離にすると50メートルほどだが、西側から境内に入るのではなく、いったん大相模不動尊通りに出て、山門から入ることになった。

大聖寺|山門前

大聖寺|山門前

大相模不動尊通りに出て左折。50メートルほと歩くと左手に大聖寺の山門が見えてきた。

大聖寺

11時10分。最終地点の大聖寺に到着。大相模不動尊の名で親しまれている大聖寺。寺伝によると創建は奈良時代の天平勝宝2年(750)といわれる古刹で、越谷最古の寺院と伝えられている。

山門

大聖寺の山門

山門は江戸後期・文化元年(1804)建立。当所は瓦葺きだったが、嘉永元年(1848)に銅板葺きに葺き替えられた。この山門は、明治28年(1895)の火災で、唯一焼失を免れた建物。山門以外は、本堂以下すべて焼失した。

案内役の田中さん

仁王門と呼ばれた山門は、江戸期の大聖寺をうかがわせる貴重な建造物として、越谷市の有形文化財(建造物)に指定されています。

良弁塚

良弁塚

大聖寺の本尊は、奈良東大寺の初代別当・良弁(りょうべん)作によるといわれている不動明王像。山門の西側に、良弁の功徳をたたえた江戸後期・天保8年(1837)建碑の良弁塚が建っている。

参道

参道

山門をくぐって境内に入る。本堂まで続く石畳の参道。両脇は御神燈が並んだ桜並木になっている。参道の桜は遅咲きの山桜。右手は大相模不動尊名物の虹だんご。

ぴんころ地蔵尊

ぴんころ地蔵尊

桜並木を抜けた参道左手、狛犬と早咲きの冬至梅(とうじばい)の中ほどに、ぴんころ地蔵尊がある。カラオケのマイクを持った温顔で楽しそうなお顔だ。地元のカラオケ愛好会(不動梨の会)が、平成23年(2011)に奉納した。

本堂

本堂

案内役の田中さん

大聖寺の本堂では、12年に一度、酉年(とりどし)に、ご本尊(不動明王像)のご開帳があります。前回のご開帳は、2017年(平成29年)でしたので、次のご開帳は、2029年(令和11年)。7年後ですね。

ご本尊を特別公開

大聖寺のご本尊

ボクは、前回のご開帳のときに、本尊を拝ませていただいた。そのときに、フラッシュ不使用という条件付きで許可を得て撮影した大聖寺のご本尊(不動明王像)を特別に公開する。それが上の写真。この記事を読んでくださっているあなたへのボクからの感謝の気持ちです。
 
この写真のコピーおよびSNSやブログなどへの転載は厳禁。

タブノキ

タブノキ

本堂を正面に見て右へ移動。巨木が目に入った。この大木は推定樹齢500年というタブノキ。樹高 9メートル。幹周りは 4メートル。幹の一部は空洞になっているが、樹勢はいたって旺盛。緑の下に入ると神聖な気を感じる。

案内役の田中さん

この古木は「大聖寺のタブノキ」の名で、越谷市の天然記念物に指定されています。

百庚申

百庚申

東門の参道両脇に「庚申」と赤文字で刻まれた石塔がずらりと並べられている。その数、ナント、100基。「百庚申」(ひゃくこうしん)と呼ぶ。
 
参道の両脇に50基ずつ並んでいる庚申塔は、江戸後期・天保6年(1835)の建塔。もともとは元荒川の堤防近くにあったが、関東大震災のあとに、ここに移された。そのとき 3基が不明なっていて 97基だった。平成16年(2004)に 3基が新たに造立されて 100基に戻った。

案内役の田中さん

100基も庚申塔を建てたのは、一基よりも100基のほうが御利益が大きいから、ということのようです。

たしかに一度に100基を拝めば、それだけ多くの功徳を得られるような気もする。
 
百庚申の功徳を得て、鐘楼(しょうろう)脇へ移動。

中村有道軒の碑

中村有道軒の碑

鐘楼の脇に自然石の大きな碑がある。これは、幕末の名剣士とうたわれた中村有道軒(なかむらうどうけん)をたたえる記念碑。
 
有道軒は越谷の東方村(ひがしかたむら=現在の大成町)出身で、18歳で初伝を許され、剣術修行のために諸国を遍歴したあと、故郷の東方村に戻って道場を開設。門弟は千余人を数えたという。

案内役の田中さん

この石碑は、77歳で病没した有道軒の遺徳をたたえるために門弟たちによって建てられました。裏面には150人近い門弟たちの名前が刻まれています。

解散

藤棚

11時35分。参道の藤棚下で、案内役をつとめた田中さんのあいさつのあと解散となった。所用時間およそ2時間。歩いた距離は4キロ超。観光ぶらっとこしがや・越谷の達人達、これにて終了~
 
それはそうと、出発前、参加者に配る資料を忘れて、大あわてしてた越谷市観光協会の高橋さん、そのあと、名幹事ぶりを発揮したのかな。

幹事の高橋さん

ご安心ください。出足のミスはしっかり挽回しました。みなさん、今回の観光ぶらっとこしがやは、いかがでしたか? またぜひご参加くださいね。

虹だんご

虹だんご

解散後、せっかく大聖寺まで来たんだし、おなかもすいたし、虹だんごに寄っていくか、ということで、境内の虹だんごでひとやすみ。やっぱり虹だんごはうまい!

後記

観光ぶらっとこしがやの資料

今回の観光ぶらっとこしがやは天気にも恵まれ、新緑もえる中、越谷の知られざる史跡や人物を知ることができた。これもひとえに、分かりやすい解説をしてくれたボランティアガイドさんたちのおかげである。準備もたいへんだったことと思う。あらためて感謝の気持ちを伝えたい。ありがとうございました。

越谷市観光協会

越谷市観光協会では、「観光ぶらっとこしがや」をはじめ越谷に関する情報を随時、公式サイトや SNS で発信している。詳細は越谷市観光協会の公式サイトで要確認。