石塔
日支事変二周年記念碑
道路脇の記念碑は、昭和14年(1939)建立の「日支事変二周年記念碑」。日支事変(にっしじへん)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで日本と中国との間で行なわれた戦争。日中戦争・日華事変・支那事変とも呼ばれる。
威風四海|碑銘
正面中央に「威風四海」(※11)の四文字が刻まれている。脇銘に「陸軍少尉 櫻井忠 温書」とある。
※11 「威風四海」(いふうしかい)とは、南北朝時代の軍記物語『梅松論』(ばいしょうろん)の中の一節「将軍の『威風四海』の逆浪を平らげ、干戈と云事もきこえず。」を出典としている。「将軍の威風が世の中の乱れを平らげる」の意。
銘板
銘板には次のように刻まれている。
日支事変二週年記念
発起
大澤町青年団
第四支部
後援
大澤町
第四地画
昭和拾四年
七月七日建立
種類不詳の石塔
電柱の脇に上部が欠けた石塔らしきものが置かれているが、何かは分からない。幟立てのようにも見える。「十」「十月」「玆」らしき文字が確認できるが、他の文字は判読できない。年代も不詳。
補足|地蔵尊の由来
地蔵橋の地蔵堂に安置されている地蔵尊の由来について『ときの風~ふるさと大沢 今昔物語』(※12)に記されている。以下、引用・抜粋して紹介する。
※12 越谷市制60周年記念『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』大沢地区コミュニティ推進協議会(平成30年〈2018〉4月発行)「地蔵尊の由来」91頁
地蔵尊の由来
地蔵尊の由来を記した拓本が大沢四丁目自治会館に掲載されています。その内容を越谷市教育委員会の協力(昭和59年)を得て解読することができました。
この拓本の基である木彫り板[中略]は、(江戸後期)天保13年(1842)であることが推定されます。また、この地蔵尊は(江戸中期)宝暦9年(1759)まで遡れることが分かりました。
この地蔵尊はその昔、茶店を営んでいたM家の先祖が、名主より家の前だからとの理由で世話を頼まれたとの言い伝えもあります。
木彫り板はケヤキの板に文字が彫られており、M家宅に現存しております。引用元:『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』
拓本の由緒|現代語訳
地蔵橋は人々によく知られていても、地蔵のことは知らない者が多い。現在では、古い昔の由来があると誰ともなく言うだけで、橋のたもに住む私は宿駅の長老に尋ねてみた。
長老が言うには「昔、地蔵にゆかりのある末裔が石仏の下に宝物を埋めたとのことだが、あわれにも線香の煙がくゆるようなもので、雲や霞(かすみ)のように消えうせたと伝え聞いている」とのことだ。
この話を聞いて、私は何人かの人たちに地蔵のことを話し、寄進を願って、新たにお堂を建てた。仏(地蔵)もやっと供養してもらえる時期が来たと喜んでいることと思う。
それというのも人々の信仰心が足りないばかりにご利益にあやかれず、みずから迷い疑い、ついには生業(なりわい)さえおろそかにする。
昔、浅草の観音さまは、隅田川に沈んでいたのが漁師の網にかかって世に出ることにより、今では有名になっており、大相模の不動さまは、行脚僧の笈(おい)に背負われていたものが安置され、霊験あらたかなものとなっている。
大石を彫って尊い仏像としても(信仰心が足りなければ)それだけでは草木が紅葉するような恵みはないのと同じである。
ここの通り道の人たちは、何回となく合掌しなさい。そうすれば(地蔵さまは)いつの時代も慈悲の心で私たちを見守ってくれるし、病を治し、子孫の末長い繁栄を祈ってくださるだろう。
両方の手に良いも悪いもある
今年こそ両手を合わせて祈ろう
壬寅年 十月十六日引用元:『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』
場所
地蔵橋地蔵堂の住所は、埼玉県越谷市大沢4-19-36( 地図 )。郵便番号は 343-0025。場所は、越谷野田線(埼玉県道・千葉県道19号線)を渡す地蔵橋の南東20メートル。逆川の左岸側。越谷市大沢歩道橋南側階段のすぐ先。
参考文献
本記事を作成するにあたっては、関係書籍や調査報告書も参考にした。参考にした文献を以下に記す。引用した箇所については記事中に引用箇所を明記した。
加藤幸一「大沢町・越ヶ谷町の石仏」平成13年度調査/平成31年7月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市制60周年記念『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』大沢地区コミュニティ推進協議会(平成30年〈2018〉4月発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)